いつから木登りをしなくなったのだろう。少なくとも、あさがお幼稚園にいたころの私にとっては、ひだまり公園の大きな桑の木は、全身でしゃにむにしがみつき、足場から手を伸ばし、高所に上半身を乗り上げて、体重をゆらゆらと感じながら枝に寝そべるためにあるもので、ブランコからぼんやり見上げるためのものではなかった。陽光に輪郭を溶かした枝葉が七月の風のなかで光っている。保護観察処分をうけて、東原町から離れた学校に行ってからも、木登りをやめたわけではない。でも、どこか後ろめたさを感じていたのも事実だ。いったい、何に? 空を見上げることに? 人間が飛べないというありふれた事実に? それとも、天をめざして重力から逃れようとする動作の根源的な不遜さとでもいうものだろうか。馬鹿げた話じゃないですか。わはは。とにかく、先方が指定した待合せ場所がここだなんて、因果なものではある。ひだまり公園で、私は葵くんと出会ったのだ。
 ヴァージニア・ウルフの文章のなかで、プルーンが野菜だと言い張っているくだりを読んで思い出したのだが、幼稚園生のころって、なにが野菜でなにが果物かというしょうもない変な雑学で盛り上がっていた気がする。スイカやメロンは実は野菜だとか、キュウリやトマトは果物だとか、パパイヤは沖縄では野菜炒めにしてるんだぜ、へえ、とか。ま、それが普通ですわな。かたや私は、どこにでもいるのぼせ上がったおませさんで、普通の連中を横目に、いわくありげに肩をすくめてひとりごちることもこれといって見当たらず、年齢相応のホモ・サピエンスの典型的なふるまいとして、なんというか、うんざりするほど普通に、恋などをしていた。恋をしている間は、自分の経験だけは世界のどこにもない特別なことだと思いたがるものだが、恋をした人類の97%はそう思うらしい。
 ありふれた本物とフェイクの弁証法。俺はあいつらとは違う、俺だけは本物だ、その相克だけで400頁ぐらいの小説を書けてしまうのが若さの特権というやつだが、最後はちょっぴり大人になって思い上がりを正さないといけない。文章を最後まで書き上げるということは、無数の身じろぎするコノテーションを削り落とし、主題を適当なところで切り上げ、いくらでもありえたはずの多様な可能性をひとつの姿に封印し……なんというか、それって要するに、若さが敗北することなのだ。否定のコラージュが組み上げた自分の幻像は、たった一つの質問で瓦解する。「で、お前はどうなの?」周りにがやがや言っているときは気楽だ、自分はなんにでもなれると思っているから。でも、たいていの人間は、やりたくもない仕事を面接官の前で第一志望だと言い張り、本来は破綻している会社を労働法を無視して守り続け、週末ははりきって煮込み料理でもするつもりが、お茶漬けの素で炒めた謎パスタで済ませてしまう。なんにでもなれるはずだったのに、自分は自分以外のものにはなれなかった――という諦念すら、昨今では贅沢品である。わたしたちは自分にすらなれない。いつだって、どこかのクソな星でクソな宇宙人が見ている夢みたいな生活をしている。大人になんか絶対になりたくない。この国で大人になったら最後、考えるのをやめて、あとは死ぬだけだ。
 その人の文章を好きになったら本物の恋だよ、と、どこかの作家が書いていたが、いかにも作家がいいそうな都合のいい話である。本物の恋などというものはない。誰ひとり特別にはなれず、結局のところ動物らしく、天にも昇るような気持ちで、地べたを這いずるように好きになるのだ。どちらかといえば、私は読むよりも書いてしまうほうだったけれど。葵くんのことを考えながら、最初に詩を書いたのはいつのことだっただろう? 最初は、たった五文字の組合せに過ぎなかった。言葉を覚えるうちに、できることも増えた。中学1年生のとき、ついに丸々1ページを彼への想念で埋め尽くすことができた。最高傑作ができたと自負してノートを頭から読み返してみたら、混乱した観念と出来そこないの韻律が、誤字脱字のめった打ちでのたうち回り、最後は干からびて死んでいた。詩なんて書くやつは全員異常者である。六法全書には載っていないが、本当は犯罪なのだ。
 やがて詩はやめて、小説を書きはじめた。モデルが誰とかいまさら言わない。主人公の高橋くんには、好きな同級生の恵比原さんがいるのだが、普段は彼女と楽しく話せていても、肝心なときに踏み込むことができない。なぜかというと、これが面妖というか、なんだか抽象的な話なのだが、彼が恵比原さんに対して感じているかわいらしさが、自分の欲望なのか、彼女に属する性質なのかがわからないせいなのだ。「かわいい」って要するに、自己主張が弱くて自分がコントロールできそうな感じのことじゃないか、僕は恵比原さんのことを弱さにつけ込んで支配したいだけじゃないのか……そんなことを高橋くんはうだうだと考えている。案の定というかなんというか、そうこうしているうちに、恵比原さんには別の彼氏ができる。どうしてあんな軽い口先だけのやつと、と、高橋くんは憤慨するのだけど、恵比原さんにとってみれば、高橋くんは常にどこか不機嫌で、肝心なときになんにも説明してくれず、愛情を10与えても1や2が返ってくるばかりで、真面目というよりも偏執的な、得体のしれない人物としか映っていなかった。この時点で、当初のモデルだった葵くんは影も形もなくなり、小説は小説自身の力で勝手に進んでいる。「“不器用な優しさ”なんてものはないんだ」と恵比原の彼氏(名前なし。いま思えば、彼に名前を与えていたほうが、小説はずっとよくなっていただろう)は高橋くんにいう。「不器用はただの暴力だよ。君が恵比原さんに与えていたのは、僕の正しさを言葉にせずとも察してくれっていう、無言の威圧とわけのわからない恐怖だけだ。君の優しさは、君の頭のなかにしかない。君は優しくなんかないんだよ、高橋くん」まあ、そういうわけで、高橋くんはひとつのイノセンスを失う。優しさには古典的なパラドックスがある。優しさを誇示することは優しさとは無縁の行動だけど、そうしなければ優しさは観測されない。世界にうろついているのは自己プロデュース能力に長けた詐欺師みたいな連中ばかりで、いい人は割りを食うことになる……と、高橋くんは思っていて、これは実際にそんなものかもしれないのだが、それはそれとして高橋くんは別に優しくはないのだった。よくあることだ。そもそも、優しさの見返りに彼女がもらえると思っているところが、普通に邪悪だ。現実の女性はPS4ゲームの実績解除トロフィーではないので。もちろん、最初から、こういう小説を書きたいわけではなかった。私はただ、記憶にある葵くんの姿を、ある種の「理想の男の子」を言葉のなかに再現したかったのだけど、私の小説のなかの男の子はいつも、どこかで必ず思い上がり、欲望と偏見に振り回され、コミュニケーションに失敗し、唐突に人生について考えたりして、いつもどこかをひとりでふらふらと彷徨っている。
 あの桑の木には折れた太枝があるはずだが、どれがそうなのかわからなかった。少なくとも、私の記憶のなかでは、あの木が葵くんとの「最初の出会い」の背景にあるのだが、記憶はすでに混濁しているのかもしれない。だって、小学生にもならないうちから木登りをさせるか? それに、幼稚園児の体重で、あんなにずっしりした枝が折れるものだろうか。とにかく私は、あの枝のなかに寝そべっていた。ずり落ちそうになる自分を、内田葵が不安そうに見上げている……そんな彼の姿を、私はどこから見ているのだろう? 事後の知識から再構成された記憶であることは間違いない。
 墜落――ほぼ同時に、枝が折れたことを知る。
 真下にいた葵くんが、私を受け止める。
「大丈夫?」
「うん」
「人間は飛べないんだよ」
 葵くんはいう。
「人間は落ちたら死んじゃうんだ。翼がないからね」
 目の前にいる漆黒のスーツの人物は、ただここが現在であるというだけで、記憶のなかの私たちよりも鮮やかにそこに立っている。現在の私は、東原大学の文学部二年生。このたび雇った「調査人」は、大学の先輩が入っているゼミの教授の知人の知人から紹介されたもので、要するにどこの誰だかさっぱりわからないのだが、その人は、調査人の黒瀧榧と名乗った。事情はすでに説明済みで、私の過去の事件やその報道、重要な関係者についても自分なりにあたってみたらしい。
「私は本当に、葵くんのことが好きだったんです」
「そうなんですね」
「それだけは憶えているんです。でも……」
「なぜ彼を殺したのかわからない?」
 うなずいた。
 小学一年生の真夏のこと。
 私、外池蒼は、内田葵の心臓に彫刻刀を刺した。
 私の初恋の人は、6歳で死んだ。なぜ殺したのか、どうしても思い出せない。
 
  *
 
 調査人がどこに向かっているのかわからないまま、私は追いかける。
「当時の報道を覚えていますか」 
「ぼんやりとは……」
「東原新報には、当時のあなたが言ったとされる〈殺してみたかったから殺した〉という言葉が載っています。この報道はセンセーションになって、時代を憂う評論が世にあふれました」
「おかげで、私の家族は東原町を追われました」
「この言葉では、あなたは納得しないんですか」
「もちろんです」
 葵くんを刺したとき、私は6歳だった。法的には、14歳未満の少年は刑事責任の能力を有しないことになっている。いわゆる「触法少年」である私は、家庭裁判所に送られ、保護観察処分を受けることになった。私は成人するまで保護司と月一で会って、現状を報告していた。「君はびっくりするぐらいおとなしい」と、阪本というむさ苦しいおっさんが言うのだった。ボランティアで少年犯罪の保護司をするだなんて、聖人でなければ単なるマゾヒストだろう。「少年犯罪ってね、だいたい家庭に問題があったり、発達が未成熟で情緒不安定だったりしてね、なんというか、けっこう類型的なんだよね。類型的ってわかる? 君ならわかるか。みんな似てるんだよ。逆に、君みたいな子は世間にたくさんいるけど、ここでは珍しいね。君みたいな子が、どうして友達を刺したのかな」
「友達なんかじゃないです」私がこたえる。
「そうなの? 仲が良いって聞いてたけど」
 私はこたえない。
「〈殺してみたかったから殺した〉って、ほんと?」
「そう言えっていわれました。弁護士のひとに」
「ほんとは違うの?」
「おぼえていません」
 と言ったとき、私は嘘をついていた。
 その感触は、はっきりと憶えている。
 当時の私は、なぜ葵くんを殺したのか、はっきりと憶えていたはずだ。なにか理由があった。おそらくだが、世の中に表明するのが憚られる理屈だったのだろう。外池家は分裂寸前だった。父が四日ほど失踪したり、直後に母さんがラブホテルのゴミ捨て場でスパゲッティをかつらのように被りながら自分のゲロに溺れかけている写真を週刊誌にすっぱ抜かれたり、カッターナイフと新聞の題字切り抜きがコラージュされた主張の激しいお手紙が届いたり、性器の名称を連呼するいたずら電話が1日に71回もかかってきたり。自分のことだけ考えて生きているわけにはいかなかった。私は家族を守らなければならなかった。ここで私が、世間を騒がせる真似をするわけにはいけない。
 私は秘密を守りつづけた。
 そのうち、その秘密のことを思い出せなくなった。
「僕の秘密を教えてあげる」 
 葵くんが微笑む。
 私は葵くんの横顔を、薄桃色の頬を見ている。葵くんにも、秘密があった。私は、その秘密を守ることを約束した。その秘密のせいで、私は彼を殺すことになったのだろうか。
「弁護士の烏鷺村さんにも問い合わせました」調査人がいった。「彼はまだ、事件当時の蒼さんのことを憶えていましたよ。確かに、出会った当初のあなたは〈殺してみたかったから殺した〉と言っていたそうです。ですが、話を聞くうちに、ある奇妙な説明をしはじめたのだと」
「奇妙な説明?」
「ほとんど記録は残っていないのですが――なんというか、夢のような理論だったそうです。それがどのような言葉であったにせよ、裁判所にふさわしい理屈ではありませんでした。だから、〈殺してみたかったから殺した〉という当初の説明を採用することになりました」
「結局、弁護士さんは、私の言葉を憶えていないんですか」
「過去のファイルの中から、走り書きが見つかりました。手がかりはこれだけです」
 調査人は胸ポケットから、透明な袋に入ったメモ用紙を出した。
 
  “重力は天使に干渉できない”

「私が、葵くんを殺した理由を、こう説明したんですか?」
「その言葉が、説明に含まれていたことは確かです。ですが、その意味までは……」
 不穏な予感が内臓を揺らした。
 重力は天使に干渉できない――この言葉は、葵くん本人が言ったものだ。美術室でのことだった。1年1組全員が、壁中に連ねられた絵を見て、なにかを言っている。葵くんは自分の描いた絵を見せた。そんなに上手くなかったと思う。その後、私は葵くんと手をつないで、私が描いた絵の前まで連れていった。その絵には、きっと天使に関係するものが描かれていた。
「でも、こんなの必要ないんだ」
 彼は、天使の羽を指していた。
「みんな、こんなもの使って飛ばないんだよ。重力は天使に干渉できないからね」
 ひらめきの前触れ。
 だが、まだなにもわからない。
「これから、どこに?」
「小野寺先生を憶えていますか?」
「いまも東原小学校にいるんですか?」
「美術を教えています。事件が起こった15年前は、あなたと内田葵のクラスの担任もしていました。小野寺さんは事件当日、あなたと最後に話した人物でもあります。あなたは、小野寺先生の目の前で、凶器の彫刻刀を盗んでいきましたから」
「それは覚えています」
「小野寺先生に連絡をとったところ、ぜひ、あなたと話がしたいと言われました。先生は、今もあの日の会話を後悔しているそうです」
「なぜですか」
「あなたが内田葵を殺したのは、自分のせいかもと思っているようですね」
 目線が合ったとき、ほとんど同時に互いのことがわかったのに、奇妙なよそよそしさというか、どんなペルソナを纏うべきか決めかねる手探りの雰囲気があった。がらんどうの美術室内で待っていた小野寺先生は、夢のなかの記憶がいきなり鮮明になったような感じだ。白髪も混じっておらず、すこし疲れたような目尻と、骨ばった手の甲に浮き上がる血管の色合いや、夏休み直前なのに分厚いベージュのベストを着ているところが、子供のときの印象と案外に変わらなかった。
「お久しぶりですね。いい子にしていましたか?」
 ぜんぜん。ショタコンなので校舎に散らばる子供を目で追ってしまうし(今日が休日でなかったらやばいことになっていた)はじめて酒を飲んだのは、久々に東原町に戻ってきた浅桐高校の学園祭の体育館裏、まだ16歳のときだったし、しめじの味噌汁はときどき残してしまうし、弟の寮室に気になる漫画の一巻を置いといて弟がぜんぶ揃えたところでぜんぶ盗んだことが2回ある。でも、人殺しの人生にしては、まともにやってきた方だといえるだろう。空気がしっくりと「なじむ」までの、当たり障りのない会話。小学校って意外と小さいんですね。ああ、そうですね。日光の忍者屋敷みたいでしょう。こんなママゴトみたいな場所とは思いませんでした。おかわりないですか。健康はどうですか。乳がんになっちゃって。癌! でも切ってよくなりました。はあ……。
「あの日のことが聞きたいんですね」ついに小野寺先生は本題に入った。「本当はずっと、私があなたに聞きたかったんですよ。でも機会がありませんでね」
「覚えているんですか?」
「忘れやしませんよ。あなたは昼休み中に美術室に駆け込んできました。なにか途方もない発見をしたような、爽やかな顔をしていましたよ。あなたは、私にこう聞いたんです。
 ――『鳥は共喰いをするの?』」 
「共喰い?」
「覚えていませんか?」 
「思い出せないですね」
「でね、私はこう答えたんですよ。鳥は共喰いをしますよ。街中にはあんなにカラスがいるのに、カラスの死骸を見ることはないでしょう。カラスはカラスの死体を食べるんです、おかげで街の衛生が保たれるんですよって。どこかの受け売りの、あやふやな知識でしたけどね。するとあなたは、『ハゲワシも共喰いをするの?』って聞いたんです。その答えを私は知らなかったんですけど、調べるのも面倒だったので、ええ、すると思いますよって答えたんです」
「そうしたら?」
「あなたは、私の目の前で彫刻刀を盗みました。そこからは……」
 もちろん知っている。私は東原小学校を脱出して、葵くんをある場所に連れていき、殺す。どこに行ったんだっけ? ぼんやりとした記憶の靄のなか、観念連合がスパークした。ハゲワシ――その言葉は、東原新報の記事に書かれていた。中学2年生の私はぼろ泣き状態で、自転車で東原町に駆け戻ってきた。これを最後に、永遠にここには戻らない、もう葵くんのことは考えない、彼についての詩も小説も書かないし、これからは彼のことを忘れて、自分の人生を生きるのだ。そう決意した私の胸のなかに、どっさりした海風が駆け上がってきた。海月霊園は、見晴らしのいい丘にあった。私は「内田葵」の名前が刻まれている墓石を捜しつづけ、ついにはそれを見つけたはずだ。
「これをマスコミの餌食から守る使命があると思いました」小野寺先生は、教卓に置かれている四角の物体に手をかけた。「いつか、あなたに返そうと思っていたんです」
「なんですか、それ」
「あなたが描いた、内田葵くんですよ」
 先生が布を剥がした。
 葵くんは、水色の立体感のない背景のなかにいた。
 両肩の裏から、天使の羽が描かれている。彼は祈るようにうつむいている。

  *

 彼岸花のひとつも生えない、ゴルフ場がすぐ隣にある威厳もへったくれもない霊園だけど、墓石に囲まれながら歩くうちに、それなりの気分になってきた。額縁入りの紙袋をぶら下げた黒服の調査人は、私のボディガードみたいに、ほとんど気配を消しながら背後を歩いていた。毎日この人に荷物を持たせてみたい。こういうところで内田家の両親に会って「あなたに罪がないのはわかっていますが、どうしても、ええ、どうしても――あなたの顔を見たくないんです!」的な一幕があれば、しみったれた邦画になりそうだ。邦画をまったく見ないので完全に雰囲気で言ってるけど。
 内田家の墓を見つけるまで、そう時間はかからなかった。灰色の石に彫られた「内田葵(六)」の文字を見つけたときも、想像していたより動揺はなかった。供えるための花も線香も持ってきていないし、雑巾で墓石を拭いたり、周囲の雑草を抜いたり、その手のことをする気も起きない。ここにあるのは骨壷を納めたやや高級なすべすべした石で、葵くんとは何の関係もない。
 手を合わせてみた。
 なにも感じなかった。
 私は見えない世間体に負けただけだった。祈る言葉は見当たらなかった。最初から、こんなことをするべきではなかった。どうせ墓参りをする人間のほとんどは、他人の死を悼むことのできるまともな人間味のあるやつだと思われたいだけで、ここで今さらなにかを感じるわけもないだろう。大掛かりな無駄な作業、単なる社会性ごっこ、でも社会にいる誰ひとり意義を感じていない。
 葵くん。殺してごめん。
 でも、正直、そんなに申し訳なさを感じてないんだ。
 君のことはほとんど忘れちゃったから。ほんとにごめんね。
 海月霊園を囲んでいる雑木林のなかに、ひときわ大きな桑の木を見つけた。この構図には見覚えがあった。中学生のときの私も、葵くんの墓から顔を上げたとき、あの木を見つけたのだ。歩きだす私を見て、調査人もベンチから立ち上がる。その根本は、潰れた赤紫色の桑の実だらけだった。当時の私も、確かに、両手を甘い汁で汚しながら……おそるおそる、木の根本を掘り返した。
 錆びついたキャンディの缶が埋まっていた。
 蓋をあけると、東原新報の切り抜きが出てきた。
 日付は、15年前の7月18日――私が葵くんを殺した2日ほど前の記事である。この切り抜きが大事なものだったことは憶えている。これを捨てに来るのは、私にとって一大決心だった。葵くんを殺した日の直前、私は新聞でこの記事を読み、「母さん、鳥葬ってなに?」と聞きにいった。
 
  桃原遺跡に鳥葬の痕跡
  鈴鹿教授の説裏付ける
 
 霧銀山にある桃原遺跡では、二四〇年前の江戸時代に、鳥葬が行われていたという文献が残されている。だが、該当する遺跡らしきものが見つかったのは近年のことだ。東原大学の鈴鹿教授は、遺跡の周囲にある堆積物の大規模な調査や、遺跡にある紋様の一致から、桃原遺跡で鳥葬が行われていた事実を立証し、東原町には大規模な鳥葬文化が存在したという、かねてからの自説に説得力を与えた。記事内には〈ハゲワシの糞に覆われた人骨が散見され……〉という記述がある。
「思い出しました」
 私は調査人にふり返った。
 黒瀧榧は、無言でうなずいた。
 長い石階段を登るうちに、夕陽が地球を追いかけてきた。鳥居を抜けて、境内に辿りついたときには、汗もほとんど乾いてしまった。詞来栖神社の裏手にある、ちょっとした雑草の狭間にしか見えない、信じがたいほど目立たない小道を抜けると、桃原遺跡が見えてくる。岩石製のUFOが山肌に埋め込まれているみたいで、その岩棚に立つと、地平線から滲む光に瞳が灼かれた。
 かつての私も、この光を見ていた。
 右手から熱く昇る、血潮の臭いを感じながら。
「天使の鳥葬」
 と、私はいった。
「それが答えです」
 調査人は黙って聞いている。
「葵くんはいつも、自分が空を飛べるのだと嘯いていました。小学生の他愛もない冗談です。ですが、6歳の子供にとっては、それなりに真剣な話題だったんです。葵くんの背中をなぞって、彼がそこにあると言い張っている透明な羽のことを思い浮かべているとき、私には本当に、その羽の姿が見えていたように思います。でも、羽そのものは本質ではなくて――葵くんはある日、自分のことを天使なのだと明かしました。彼によると、天使の羽は、あくまで飾りでしかないんです」
「“重力は天使に干渉できない”……」
「だから天使は、羽の力で飛んでいるのではなく、その精神の光輝によって飛んでいるんです。もちろん、こういう話題を馬鹿にする子供たちもいました。私は、葵くんが天使であることを、どうにかして証明しようと考えていました。だから、ここに連れてきて、彼の心臓を刺したんです。私が行おうとした儀式は、天使の鳥葬です。当時の私は、断片的な聞きかじりから、鳥は共喰いをするものと信じています。ここで鳥葬が行われたとき、鳥たちが葵くんの羽を食べなかったなら、それは鳥の羽ではない――すなわち、天使の羽ということになります。滑稽な推論ですけどね。彼が天使であることが証明されたとき、彼の命もまた蘇るものと、私は信じていたようです」
 言葉を切った。
 それ以上、続けることはできなかった。
 空虚な既視感が、脳裏をなぞった。〈天使の鳥葬〉という言葉を、それがもたらすこの感覚を、私は以前から知っていた気がする。もちろん、確証はない。だが、こんなもの、あからさまに作りすぎた話じゃないだろうか。初恋に溺れた人間が書く、出来そこないの詩みたいな……
 なんのことはない。
 謎なんて、最初からどこにもなかった。
 私は、内田葵が天使ではないことを知っていた。心臓を刺されれば死んでしまう、ありふれた男の子であることも理解していた。それでも、「天使の鳥葬」という甘美な言葉、自分が最初に思いついた詩の響きに囚われていた。私は、虚構と現実の区別がついていなかったわけではない。虚構と現実の区別をはっきりと理解していながら、それでも自分の虚構を選んでしまったのだ。彼が天使だと思いこんだふりをすれば、彼を殺すことができるだろう。罰されることもないままに。
 ――〈殺してみたかったから殺した〉――
 それだけが真実だった。
 あとは、すべて虚構だ。
 その単純な事実から目を背けるために、言葉を並べ立てていたにすぎない。
 真夜中がやってくる。藍色の暗幕に、千の星々が、その遠い光のすべてが、桃原遺跡の冷たい円盤に横たわる子供たちに降りそそぐ。葵くんは虫の息だけど、私を安心させるために、優しい言葉をつぶやき続けている。この記憶は、もちろん嘘だ。それでも私は書くだろう。この罪から逃れるために、私はいつまでも書きつづけ、葵くんに恋をしつづけるのだろう。
 優しい男の子。私の王子様。
 物語のなかにしかいない、完璧な男の子。
「こんなことさせちゃってごめんね」葵くんがいう。「僕は、ただ、君によく思われたかっただけなんだ。だから、ずっと嘘をついていたんだよ」
「天使じゃなかったんだね……」
「最後に、僕のほんとうの秘密を教えるね」
 葵くんは私の両手をつかんで、祈るように重ね合わせる。
 彼の鼓動を感じる。いまやそれも弱々しく、消えかけている。
「僕は天使じゃなくて、悪魔なんだ。だから、君に呪いをかけてあげる」
 葵くんが、私の頭をひきよせる。
 私たちの頭上で流星がきらめく。
「僕のことを忘れないでね」