煉獄と積読が韻を踏むのは偶然ではありません。
 今宵も遅読館には、行き場をなくした人間の魂が滞留しています。

 警告:
 本稿が真相・内容等に触れているミステリ作品……
 泡坂妻夫『亜愛一郎の狼狽』『煙の殺意』
 エドワード・D・ホック「長方形の部屋」

 はいさい。秋葉令です。
 わたしは本を読むのがあまりに遅く、そのことに劣等感を抱いています。こういうことは、最初に言ってしまうほうが、かえって気兼ねがないように思い始めました。事実は事実です。取り繕ったところでどうしようもありません。ある読書家の方が、「ハードカバーの小説は、たいてい一時間ぐらいで見積もりませんか」と述べていて、腰を抜かしたことがあります。そのとき抜かした腰はいまも電脳空間を彷徨っています。わたしは一冊の文庫本でさえ、一日かけて読みとおせたことが数えるほどしかありません。ましてや二冊など! エベレストを見上げる気持ちです。わたしは文章を、脳内で音読しなければ意味を追いかけられません。意味だけで字面を追うことが、どうしてもできないのです。映像に変換したり、音の連鎖を気にしたり、不意に飛んだ連想に小一時間付き合ったらどこを読んだのかわからなくなって、すでに読んでいたはずの段落をなんどもなんども追いかけたり、気づいたら小脇においてあるHUNTER×HUNTERの頁をめくっていたり。そんな次第で、筋を追いかける余裕などないのです。短編をひとつ読み終える頃にはもうへとへとになっていて、すこし休みを挟まないと次に進めません。もちろん、比べ始めたらきりがありません。わたしの読書速度だって、きっと誰かよりは早いでしょう。絶対的な不幸をもつ者だけに声を上げる権利があるのなら、不服を申し立てられるのは死者だけになり、この星は静寂で満たされてしまいます。インターネットのみなさんはそんな世界がお望みですか。わたしはわたしの悲しみの話をしているのです。
 遅読館にいれば、かつてわたしが読み残してしまった本をいつまでも読んでいていいそうです。支配人は最初にそう言いましたが、地下室の黒い門をくぐったきり姿を見ませんから、あの方が館に関してどれほどの権限を持っているのか、実際のところを確かめる術はありません。内壁を本棚に包まれた尖塔を蠢きまわる、人影に聞いてみるのも詮無いことでしょう。どうやら向こうだって、わたしのことが人影にしか見えていないようですから。せっかくなので、作業用の机に備え付けられたこの機械で、読んだものの記録をつけることにしました。時間のかかる仕事になりそうです。

御品書

 第一夜は(とはいえ実は、この館に招かれて以来、陽光を拝んだことは一度もないのですが)、泡坂妻夫の『亜愛一郎の狼狽』『煙の殺意』です。どちらも推理小説の短編集で、収録作品は以下のようになっています。
 
 『亜愛一郎の狼狽』
 
 「DL2号機事件」
 「右腕山上空」
 「曲った部屋」
 「掌上の黄金仮面」
 「G線上の鼬」
 「掘出された童話」
 「ホロボの神」
 「黒い霧」
 
 『煙の殺意』
 
 「赤の追想」
 「椛山訪雪図」
 「紳士の園」
 「閏の花嫁」
 「煙の殺意」
 「狐の面」
 「歯と胴」
 「開橋式次第」

人間の内的規則

 泡坂妻夫のミステリに通底している感覚は、人間がなんらかの規則に基づいて行動していることに対する新鮮な驚きだと思われます。これは決して当たり前のことではありません。なぜなら、人間は日々、種々雑多なことを考えていて、単一の規則によって行動してはいないからです。だから、泡坂ミステリにおける人間観はどこか寓話的で、ある意味では単純で、安っぽく、箱庭に配置された人形めいた趣があります。そのような人間は、なんらかの人工的な制御のもとでしか――小説のなかにしか存在しません。しかし、最初のうちは、人間の行動を決定する規則は隠されています。外観だけを見ているうちは、どうして人間がそんな動きをしているのか、よくわかりません。しかし、最初は理不尽で非合理的な行動とみえたものが、簡単な規則に基づく行動だったことが示されます。からくり人形を裏返して、言葉で組まれた歯車を見せて、「ほら、こうなっているんです。なにも複雑なことはないでしょう」――そこに驚きと、面白さと、一種の冗談めいた味わいがあります。
 「DL2号機事件」を見てみましょう。こんなふうに始まります。

 宮前空港の東の端に、白いものが霧のように現れる。それがみるみる膨れあがり、走り来たって、透明などしゃ降りになった。強い日差が弱まらぬほど、雨の速度は早かった。
 宮前市に住んでいる人たちの中には、前の年の惨事を想い出して、再び恐怖に落ち込んだ人も多かったに違いない。去年の同じ季節、この日と全く同じ雨のあとで、震度7の地震が、宮前全市を襲ったからである。
 大地が波になり、人たちは呆然と地にしがみつくだけであった。建物の倒壊、地割れ、崖崩れ、火災がたて続けに起り、気が付いたときには、市の三分の二までが甚大な被害を受けていた。このような地震が起きたのは、五十年ぶりのことであった。
 百五十年前に地震が発生したときには、この土地は荒野であり、震源地を流れていた川が消え失せてしまったという伝説を残した。百年前の地震では、荒野は牧場になっており、五、六頭の馬が転んだだけだった。五十年前の地震では庄屋の蔵が半壊した。そして今度の地震の話題は、宮前空港の滑走路が、亀裂を生じたことであった。五十年ごとの周期で地震が来るというこの土地の言い伝えが、やがて確固とした信仰になってゆくだろう。
「――まさかこの雨のあとで、また去年のような地震にはならないだろう。同じ季節に同じ雨が降ったからといって、同じ地震があるなんて、考えられない。だいたい、そうちょいちょい地震など起ってたまるものか」
 宮前警察署の刑事巡査、羽田三蔵は自分に言い聞かせていた。

「DL2号機事件」/泡坂妻夫『亜愛一郎の狼狽』

 不穏な出だしです。偶然かもしれず、しかしみるからに規則がありそうな様子で、大破局が予告されています。羽田刑事は宮前空港に張り込んで、到着予定のDL2号機を待ち構えています。そこにいるのは刑事ひとりではありません。どうして警察や消防車、機動隊員たちが、DL2号機を待機しているのか。なかなか読者に明らかにされないまま、羽田三蔵は周囲の人々を観察します。まず、三人のカメラマンがいます。ひとりは「ああ」と呼ばれている、端正な顔立ちのおろおろとした要領の悪い人物で、彼こそが本書で探偵役を務める亜愛一郎であることが、いずれ明らかになるのですが、登場時はあくまで容疑者のひとりです。もうひとりは、飛行機の乗客を迎えにきた運転手ですが、その名を緋熊五郎といい、飲酒運転で事故を起こしたら撥ねた人物が柔道の師範で、轢いた当人に運転席から引きずり出されたという情けない経歴をもっています。しかし、彼がまた運転手に雇われたのは妙な話で、雇用主は飲酒運転のことを知っているのだろうかと、羽田三蔵は訝ります。
 なぜ警察がDL2号機を監視しているのかというと――空港に爆破予告の電話が来たからなのでした。犯人は電話越しに、羽田発-宮前着のDL2号機を指定して、その機に時限爆弾を仕掛けたと予告しました。標的の「あの男」が乗っているせいだといいます。もちろん、DL2号機は出発前に機体を綿密に調査されましたが、爆発物らしきものは発見されませんでした。ですが、方法はわからないにせよ空中爆破すると言っているのですから、警察が動かないわけにいきません。ここまで読んだとき、読者はその後の展開を予測するでしょう。この短編は「DL2号機事件」という題名ですから、宮前空港の滑走路に迫ってくる機体が、重要な鍵になっている話のように思えます。どうやって爆発物が持ち込まれたのか、そのトリックをめぐる話になるのだろうか。あるいは、この犯罪予告を利用して、別の犯罪が行われるのだろうか。しかし、そのいずれでもありませんでした。
 驚くべきことに――なにも起きないのです。少なくとも爆発はしませんでした。羽田三蔵は、地上に降りてくる乗客たちを見つめます。爆破予告の電話がかかってきた公衆電話で、釣り銭が戻ってこないことにぷんすかしていた「三角形の顔をした洋装の小柄な老婦人」も、DL2号機に乗っていました。降りてくる客のひとり、宮前市の湖野台に住む柴という男が、どうしてこんなに警備が少ないのかと羽田刑事に突っかかってきました。柴がいうには、犯人は柴にも電話をかけ、彼を殺すことを予告してきたそうです。この柴氏が、飲酒運転の緋熊五郎を、お抱え運転手として雇っている人物なのでした。柴は被害妄想がひどく、自分が社員に殺されるのではないかという想像に常に怯えているようです。なにもない階段で二度もよろけたかと思うと、柴はすたすた帰っていきました。
 この辺りで、生真面目な読者は困惑してくるでしょう。これは、いったい何の話なのか? なにかが起こっていることは間違いありません。ですが、この小説が提示している、問題の輪郭がよくわからないのです。推理小説にはときどき、そういうことが起こります。問題の答えを求められるのではなく、ある出来事だけを提示して、「これはどういう問題なのか?」という問題を出すのです。たしかに、奇妙なことは起こっています。柴は病的に外敵を怖れているわりに、地震の起こった宮前市の湖野台に家を建てているし、飲酒運転を起こした運転手をわざわざ雇っています。それらの不自然な出来事は、飛行機の爆破予告という大事件と、どういう関係があるのでしょうか?
 亜愛一郎の提示した解答は、どこか気が抜けるような、「はあ……」と真顔で頷くしかないものでした。この小説は、推理小説の皮をかぶった、長い長いひとつの冗談です。柴氏の行動は、外観だけをみれば、ひたすら支離滅裂にみえます。しかし、彼は或る一貫した考えを持っていました。その仕組みが明かされた途端に、この話はあっけなく終わります。わたしは、「DL2号機事件」は傑作だと思います。ただし、どこか呪われた傑作です。推理小説のひとつの基本的な型である、問題提示と推理・解明というスタイルからは逸脱しています。答えを知ってから読み返すと、冒頭から堂々と伏線が張られていたことに驚きますが、この問題は、はっきりいって解きようがありません。人間のなかに隠されている秘密の規則。もとより検証のしようもないことです。冗談と悟られないように、作者が最後まで真顔を貫きつづけたことに驚かされます。これは泡坂妻夫のデビュー作でした。
 『亜愛一郎の狼狽』に収録された「DL2号機事件」と、『煙の殺意』に収録された「赤の追想」とは、好対照を成しています。トレンディドラマという言葉自体がいまやまったくトレンディではありませんが、「赤の追想」はそんな死語を想起させなくもない話で、〈加那子の、涙でくちゃくちゃになっている可愛いハートちゃんを励ますために、乾杯しよう〉という、唖然とさせられるものすごい科白が出てきます。いったい誰がそんな代物のために乾杯したがるでしょうか。本作の探偵役は、この欲望でどろどろになっている気味悪いハートちゃんの持ち主である、桐男という人物で、酒場で加那子の話を聞くうちに、シャーロック・ホームズ風の推理で、かつての彼女の服装や、彼氏の風貌まで当ててしまいます。最初は驚かされますが、よくよく考えるとその推理は、女性が服装を変える理由は男性の影響、それも恋愛の影響に決まっているのだという奇妙な確信に裏打ちされていて、読んでいて内臓全般の調子が悪くなる人もいるかもしれません。「赤の追想」のメインとなる謎は、加那子が付き合っていた彼氏の奇妙な行動で、桐男はその行動に隠されていた秘密を言い当てることになります。この話は、謎のつくりかたが「DL2号機事件」とほとんど一緒ですが、出来には雲泥の差があり、あまり穏当な表現を思いつかないのですが、駄作ではないかと思います。
 どうして評価がわかれるのか。解明のための伏線を出すタイミングが遅く、しかもわざとらしくて驚きを感じにくいという技巧的な問題があるかもしれませんが、そもそもの話として、この謎のつくりかたが要請する人間観――ひとがある単純な規則に基づいて行動しているという、あまり自明とはいえない前提が、主題と釣り合っていないのです。「DL2号機事件」は徹底して、最後まで冗談でしかなく、それゆえに気品がありますが、「赤の追想」は下品です。後半になっていそいそと手紙で説明をする手際に、「人間とはこういうものだ」という説教くさい語り口に、ぎこちない臭みが漂っています(同種の問題を、「椛山訪雪図」にも感じました)。人間の内的規則など、そう簡単に計り知れるものではないし、それがたったひとつの単純な規則である保証はどこにもありません。その理路を説明すればするほど、嘘くさくなるのが道理です。こういうものはアイデアを提示して、そのイメージが鮮烈であるうちに、あっさりと終わってしまうほうが良さそうです。
 人間の内的規則を謎の中核とする、泡坂妻夫のミステリには、特有の面白さがありますが、読者が謎解きに参加しづらい欠点があります。人間の内的規則は、自白などで犯人自身が真相を明かさない限り、解答の検証手段がないため、いくらでも恣意的な決着をつけられます。そして、いかにも謎解きができそうに読者に謎が提示され、その決着が恣意的であると、不満が残ります。「DL2号機事件」の美点は、そもそもの問題が何であるかを、読者に隠蔽していたことにありそうです。この種の謎は、謎解き型の問題として提示するより、「そもそも、いったい何が起こっているのか?」というホワットダニット、この問題がなんであるのかという問題にするのが、スマートなのかもしれません。シチュエーション自体の謎から生まれる問題には、展開次第でいくらでも恣意的な解決をつけられますが、それでも美しい解決とくだらない解決はあります。問題・推理・解明の、謎解き型ミステリの基本型にはまらない、自由な発展型の萌芽がここにあるようです。泡坂妻夫には最初から、ホワットダニットの適性があったのかもしれません。もちろん、デビュー作に作家の宿命があたかも神託のように刻印されていると信じるべき理由は特にありませんが、「DL2号機事件」には、それを想像させるだけの潜在的な迫力があります。

ホワイダニットの二種類の処理……〈ホワットダニット+ホワイダニット〉型と、〈ハウダニット+ホワイダニット〉型

 わたしは『亜愛一郎の狼狽』『煙の殺意』を交互に読んでいました。「DL2号機事件」のへんてこな面白さに感服してからは、亜愛一郎に軍配を上げていましたが、しだいに『煙の殺意』のほうを面白く感じはじめました。亜愛一郎シリーズは、探偵役である亜愛一郎による、問題・推理・解明の基本型を重視しているところがあり、それゆえに形式の自在さに乏しく、解決の恣意性に不満が残る展開が多いのです。一方、シリーズ探偵の制約に縛られていない『煙の殺意』は、「紳士の園」「閏の花嫁」「煙の殺意」あたりから急に面白くなります。「紳士の園」は、こんな話です。出所したての島津という男が、刑務所で知り合った近衛という男と公園で再会します。近衛は犯罪者のくせに紳士ぶった謎の男で、島津は空腹に誘われるままに、近衛の手引きで白鳥鍋をします。公園の池にいる白鳥を、罠で捕まえて食べるのです。その夜、ふたりは公園の浮浪者が殺されていることに気づきました。翌日、現場を確認してみると、浮浪者はばらばらに解体されて、新聞紙にくるまれて公園の屑籠に捨てられていました。島津たちは、食べかけの白鳥鍋の残骸がきれいに掃除されていることに気づきました。さらに、公園に現れたスリが、四人の礼儀正しい人物に捕まえられるのを目撃します。明らかに、なにかが起こっています。ひとつひとつの出来事は明瞭としているのですが、すべてを統一する説明が欠けています。この出来事の意味が明らかになったとき、やはりなにかの冗談のように、あっさりと話は終わります。「閏の花嫁」は、南の島で結婚した毬子と、加奈江の往復書簡で綴られる話です。おとぎ話のような、それでいてどこか説明のつきにくい部分のある結婚生活には、なにか秘密が隠されているようです。結末自体はありふれたものかもしれませんが、それを最後の二行で暗示する手際はなかなか冴えています。表題作「煙の殺意」は、事件現場でもテレビを見ずにいられない望月警部が、殺人の起こったアパート内で、高級デパートの大火事のニュースを見る場面から始まります。短編小説である以上、この遠そうな出来事にはなにかしらの関連がありそうです。「紳士の園」「閏の花嫁」は、一見したところ離れている別々の出来事がひとつに繋がるアイデアの提示、その切れ味のみで持っているような短編ですが、「煙の殺意」が優れているのは、屍体の地道な調査という手続きを踏んだ上で、それがある種の必然性のもとに遠い出来事と繋がる、飛躍のための丁寧な足踏みです。すべて処理の仕方が異なる、ホワットダニットの三種の調理法を学ぶことができます。
 ここで、大雑把な図式化を目指してみます。泡坂妻夫には、人間のなかで作動している内的規則に興味があるようです。これを推理小説の問題にすることは、広義にはホワイダニットに属するでしょう。しかし、ホワイダニットのなかでも特殊であることは間違いありません。たとえば、「DL2号機事件」において作動している動機は、あまり類を見ないものです。それが明かされたところで、読者を説得できるとは限りません。だからといって、この作品はまったくの支離滅裂というわけではありません。いっけん関連の見当たらない、別々の出来事が、たったひとつの人間の心理によって説明される。そこが面白いところです。ある人間の特殊な心理が、すべての出来事を説明する鍵になります。この短編において、読後に印象に残るのは犯人の心理でしょうが、最初からそれが問題になっているわけではありません。ホワイダニットはホワットダニットの結果として析出されるのです。
 ホワイダニットを説得的にするのは難しいことです。人間は日々ばらばらのことを考えます。ときには平気で矛盾する信念を同時に持つことがあるし、論理的に推論すれば自明であるはずのことが、全然わかっていなかったりします。物理的な痕跡が直接的に矛盾する――たとえば、ある部屋に「ここに椅子がある」「ここに椅子がない」が同時に成り立つ――ことは、そういう特殊な虚構世界でも考えてみない限り、普通はありえません。あなたがいま例外を思いついたとしても、どうせ「椅子」を二種類の意味に解釈してみるとか、そういったことで、ある命題の肯定命題と否定命題が同時に成り立つ、という意味での矛盾ではないはずです(推理小説的な矛盾の解決は、たいていこの手の詐術です。実際には矛盾する事態が表現されているわけではなく、別々の命題が、表現上の曖昧さにより、まるでひとつの命題であるかのようにみえ、擬似的に矛盾があるかのように見せるだけです)。量子レベルではそうとも限らんとか、そういう難しい話は、わたしにはちゃんとした説明ができないので、信頼できる科学者か、量子でできた猫を飼っている知り合いにでも聞いてください。ここでは推理小説で問題になるサイズの出来事の話をしています。物理的な矛盾の場合とは異なり、人間の心理における信念体系の矛盾は、現実世界においてもありふれています。人間はおおむね論理的ですが、ときどき矛盾した信念をもち、しばしば非論理的に思考して、手持ちの前提から演繹的に導かれるはずの事柄がさっぱり意識に上らなかったりします。だから、推理小説内の探偵が「論理的にいって、このとき犯人はAではなくBの窓から出る必要があったわけです」などと述べたとき、わたしたちはこう言ってみたくなります。「まあ、論理的にはそうかもしれませんけど、犯人が論理的に考えたという保証はどこにあるんです? 人間はしばしば非論理的に考えますよ。わたしもオートロックのホテルでカードキーを忘れて外出したせいで世界に閉じ込められたことがあって……」云々。
 ここにある素朴な教訓は、論理的な推論は、現実世界に適用するとき、うまく適用できる場面と適用できない場面があるということです。人間の心理には、うまく適用できません。たとえば、平行線の錯角が等しいことから、任意の三角形の頂点に底辺との平行線をひいて、三角形の内角の和が百八十度になることを説明できます。ですが、ここに平行線の錯角が等しいことを知っている人がいたとして、「論理的にいって、その人は三角形の内角の和がかならず百八十度になることを知っているはずだ」ということはできません(おそらくそう推論するだろうと期待はできるでしょうが)。人間の信念体系は、必ずしも演繹に閉じているわけではありません。これは端的な事実です。
 あらゆるホワイダニットは、本質的には不確実です。外部状況から推認して期待できることがあるだけで、実際に人間がどのような信念を持つのかは、論理的な推論から確実には判明しません。なぜかというと、くりかえしますが、人間は論理的に思考しない場合もあるからです。
 ところで、「DL2号機事件」において、登場人物の柴は一見したところ、矛盾した信念を持つかのような行動をとっています。自分が殺されると思いながら、大地震の起こった土地に家を建て、飲酒運転を起こした運転手をわざわざ雇っている。これは、説明しないままでいることもできます。人間は実際、矛盾した信念をもつ場合もあるからです。そして、個別の出来事を別々の原因によって説明することで、信念間の矛盾を解消することもできます。柴は地震のことも、飲酒運転のことも知らなかったのかもしれないし、あるいは作品内で手がかりを与えられていないまったく別の理由があったのかもしれません。しかし、探偵役の亜愛一郎はそのようには考えません。すべての不合理そうな前提を受け入れたうえで、柴の信念には矛盾がなかったことを説明するのです。ここにある驚きは、非論理的だと思われていた人間の行動が、あくまで論理的には矛盾がなかったという驚きです。亜愛一郎の推論は、類推による連想にすぎず、まったくもって不確実で、本当に柴がこんなことを考えていたかどうか、わかったものではありません。しかし、不可解な個々の出来事を統一している法則が、たったひとつの人間の内的規則によって説明されることには、予想外の驚きがあります。
 ここに、泡坂妻夫的なホワイダニットの処理の、ひとつの典型があります。ホワットダニットの問題が、ホワイダニットによって解消される。「なにが起こっているのか?」という問いが、「なぜそうしたか?」という答えにより解消される。しかし、ここで判明する人間の内的規則のほうにも独特の奇妙さがあり、読者は二段階の驚きを、効率よく味わうことができます。だから、この種の〈ホワットダニット+ホワイダニット〉型によるホワイダニットの処理は、「奇妙な味」と相性がいいのかもしれません。その一番の好例が、「閏の花嫁」ということになるでしょう。
 もうひとつのホワイダニットの処理は、「どのようにそうしたか?」というハウダニットと組み合わせることです。都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』の「4 本格推理短編を例にとって」の節に、エドワード・D・ホックの「長方形の部屋」が紹介されています。孫引きなんて芸がありませんから、実際に読んでほしいわけですが、ごく大ざっぱにいえば、密室状態で被害者と、凶器のナイフをもった容疑者が発見された。ごく単純な事件にみえたが、警察医が検死してみたら、屍体は死後丸一日経っていたことが判明する。あたかも、容疑者がナイフで刺したあと、丸一日そこで立ち尽くしていたかのような、不合理な状況に思えた。いったい何が起こったのか? という話です。この短編は現在、『サム・ホーソーンの事件簿Ⅱ』(創元推理文庫)に収録されています。やや抽象的なネタバレをすれば、これも先程の例とほぼ同じです。ハウダニットの問題が、ホワイダニットによって解消される。「どのようにそれが起こったのか?」という問いが、「なぜそうしたか?」という答えにより解消される。この作品はもちろん、ホワットダニットとも呼べるでしょう。が、密室殺人を目にしたミステリ読者の典型的な反応として、「どうすれば密室を攻略できるのか?」というハウダニット的な関心があります。それが、登場人物の思いがけない心理的な動機により、密室トリックを必要としない解決が可能になることに、この短編の妙味があります。この種のホワイダニットの処理を、〈ハウダニット+ホワイダニット〉型と呼ぶことができます。
 一見したところ不可能犯罪にみえる出来事が、登場人物の隠された意外な動機により、物理的な問題が心理的な問題に還元され、読者の錯覚が消えると同時に、矛盾が解消される。こうした〈ハウダニット+ホワイダニット〉型作品の利点としては、ホワイダニット特有の解決の恣意性を、除去しやすいことにあります。登場人物の意外な動機は、単体では納得しにくいかもしれませんが、不可能状況によって他のありうる可能性を除くことにより、「この答えしかなさそうだ」と思わせることができます。読者は安心して驚ける、というわけです。不可能犯罪を多く扱ったエドワード・D・ホックの短編には、〈ハウダニット+ホワイダニット〉型の作品がよくみられました。
 もちろん、ハウダニットと組合せたところで、ホワイダニットの根本的な不確実性がなくなるわけではありません。「長方形の部屋」だって、結局は犯人の自白に頼っているし、そうするしかないのです。密室殺人などの不可能犯罪的な状況を持ち出すことで、取り除かれるのは登場人物をとりまく状況にありえた別の行動の可能性だけであり、登場人物の心理そのものは空白のままです。「長方形の部屋」で語られる動機は意外性があり面白いものですが、言うまでもなく、犯人がそのような動機をもっておらず、「たんに不合理な行動をしていた」という可能性は常にありえます。虚構と現実の隔てなく、どのような人間も、推理小説の読者を納得させるために行動する理由はありません。わたしたちが日常的に、そのような規則に基づいて行動していないことと同様に。
 都筑道夫は「長方形の部屋」を、氏のいう〈モダーン・ディティクティヴ・ストーリイ〉の好例としています。この用語にはいろいろな含みがあって説明しにくいのですが(『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を、実際に読んでください)、都筑氏は本格ミステリの閉塞感を、トリックばかりに凝って出来事の必然性をおなざりにしたことにあるとみていて、トリックよりもホワイの動機に重きをおいた作品を現代的な本格ミステリとして高く評価していたようです。

ホワイに重点をおいて、その解明に論理のアクロバットを用意する。これが、現代のパズラーです。本格推理小説は技巧的なもので、たとえばその作中に、すぐれた思想がもりこまれていて、ひとを感動させたとしても、なぞが幼稚で、読みなれた読者に論理的興味を起させないとしたら、それは不出来なパズラーです。だから、技巧の限界が見えだした現在、小粒になるのはやむをえないとして、事件そのものよりも、解決の論理に重きをおくことが、パズラーの生きのこる道でありましょう。

「6 必然性と可能性」/都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』

 ところでわたしは、都筑道夫の〈モダーン・ディティクティヴ・ストーリイ〉や、〈論理のアクロバット〉という標語を、高く評価していません。興味深い論点をいくつか含むものの、結果的には不要な混乱を招いたことのほうが多いのではないか、と思います。
 すでに述べたように、人間が非論理的に思考する可能性は常にありますから、ホワイダニットを説得的にするのは難しいことです。だから、ホワットダニットやハウダニットなど、周辺状況によって起こりうる可能性に制約を与えて、人間のもつ意外な内的規則を「これしかない」と読者に思わせる、あるいは、解決を最初から謎解き型にせず、真相のサプライズに重きをおく、などの工夫が必要になります。
 ですが、都筑道夫は、論理的な推論を適用するのがもっとも困難な分野であるホワイダニットをとりあげ、ホワイこそが本格ミステリの「論理的な解明」に重要だという、やや混乱した主張をしてしまいました。都筑道夫のいう「論理的」という言葉はどうやら、人間心理の一貫性、その合理的な納得感をさすに過ぎないようです。論理が扱うものは、あくまで推論の形式です。人間の心理においてどのような判断が合理的であるか、といった問題はふつう扱いません。その種の問題は、推論に用いられる命題が実際に正しいかどうかの判断、推論の形式ではなく内容に関する判断であり、つまりは論理とは無関係の判断です。都筑道夫が〈モダーン・ディティクティヴ・ストーリイ〉を論じるさい、論理という言葉を、日常的な用法に基づいた、ひどく大ざっぱな使い方をしたせいで、いまだにミステリ評論界には不要な混乱が広まっているようです。論理はアクロバットをしません。論理は形式的に自明なことを語るだけです。
 ホワイダニットを重視するのは悪いことではありません。人間の意味不明にみえる行動が、実はなんらかの理由で合理的であったことが判明する。そうした工夫はミステリを面白くします。推理小説の解決編で、論理的に可能なひとりの犯人が指摘されたとします。でも、その人物の行動が、心理的に一貫性のない、脈絡を欠いた行動をしていたら、読者は満足できず、ひどく期待はずれに感じるはずです。都筑道夫は、本格ミステリは論理パズルであるべきだと考えていたようですが、わたしは、論理パズルに収まらない、世俗的なこちゃこちゃした問題を抱え込んでいるところに、ミステリの面白みがあるのだと思っています。ホワイダニットは、ひとつのサービス精神です。推理小説があくまで論理パズルに過ぎないのだとしたら、登場人物の動機まで説明する必要はありません。でも、やっぱり説明せずにいられないのです。それってけっこう面白いことですから。
 泡坂妻夫からだいぶ離れてしまいました。泡坂妻夫の〈ハウダニット+ホワイダニット〉型のミステリとして、『亜愛一郎の狼狽』から「掌上の黄金仮面」「ホロボの神」を代表例として挙げることができます。亜愛一郎シリーズは、推理に飛躍があって納得感に欠けるものが多いのですが、これらの作品のように、不可能状況を扱った場合に、手続き的な問題がおおよそ解消され、推理がホック的な輝きをみせます。前者は不可能な距離からの射殺、後者は衆人環視の密室下における射殺を扱っています。特に「掌上の黄金仮面」は、自分でも同種のトリックを考えていたこともあり、わたしが最初に考えた事になんねーかな、と歯噛みしたものでした。ただ、「ホロボの神」に関しては、ホロボ島の原住民の、作中で「未開民族」とも表現されている気質に依拠した推理であるところに、倫理的瑕疵があるかもしれません。泡坂ミステリの典型である、人間があるひとつの内的規則に従っているという発想に依る作品は、このような人間の単純化を行いやすい問題がありそうです。

蛇足など

 それ以外の作品では、「掘出された童話」「歯と胴」という作品が気に入りました。短編集は小さな美術館のようなもので、配列のなかから展示の意図がうっすらと見えることがありますが、たまに全体の文脈からぽつんと離れたようにみえる作品もあり、それが思いの外印象に残ることがあります。この二本がそうでした。「掘出された童話」は暗号ミステリです。特に、暗号内の不自然な文面から手がかりを発見する手際と、「なぜ暗号である必要があったのか」というホワイの発想に面白みがあり、なかなか普遍性のあるアイデアに思えます。ある青春ミステリで、これに類似した発想のものを読みました。「歯と胴」は、ミステリというよりはサスペンスになるかもしれませんが、意外でありながらきちんと伏線の張られたツイストのある展開が面白いです。最後の手がかりが、一発で決定打になるほど構成が練られていたら、これがベストだったかもしれません。
 
 次回はクリスチアナ・ブランドを読もうかなと思っていますが、あまり期待しないでください。遅読館には飽きっぽい人間ばっかり集められていると、もっぱらの噂ですから。

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 今宵の犠牲者:
 
 泡坂妻夫『煙の殺意』(創元推理文庫)、二〇〇一年

 泡坂妻夫『亜愛一郎の狼狽』(創元推理文庫)、一九九四年

 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』(フリースタイル)、二〇一二年  

 エドワード・D・ホック「長方形の部屋」木村二郎訳/『サム・ホーソーンの事件簿Ⅱ』(創元推理文庫)、二〇〇二年
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