【イントロダクション:ハー・ハッピィ・バースディ】
中学の同級生のSNSを見た。彼女は祝福されていた。切り取りだろうにしてもそれは祝福に満ちているように見えた。絶望に似たものを滲ませた浮遊感、落下時のような逆毛立つ感覚。恐らく中学生の頃はまだ、彼女を初めとする周囲の人間と自分は同質の存在だと信じられていた(現在だって多分本当は大きく変わらないんだろう、ただ私が「ここ」に馴染めずにいつまでも愚図っているだけなのだ)。でも数日後の私の誕生日はきっと、(少なくとも「こう」は)映えないだろうな。私の存在が始まってしまってから四半世紀程度が経過したという区切りの、祝福が似合うと積極的には思えない日が来る。
【マイ・ハッピィ・エンプティ・バースディ】
祝福に満ちはしない。1つ数字が増えただけのラベルが張られた時間軸が始まったらしい。月並みな言い方をすれば、もうとっくに「お誕生日」を歓ぶような年齢ではないのだ。この日、私の生命保険の加入が予定されていた。母は「おめでとう」よりも先に「今日は保険の日だからね」と私に言った。
白いテーブルの上に保険の説明書類らしいコピー用紙が並べられるのをぼんやりと眺めていた。昨年の夏に母から手渡されたものと似たような紙。私の保険加入は母の強い希望で、その頃からテーブル越しに座っている保険営業職員兼彼女の友人と話し合いを重ねていたらしいのだ。隣に座る母は生涯補償が良い、と言い切った。そうなると、少なくとも数ヶ月分の光熱費に当たる額の保険料を60歳まで毎月払い続けることになるらしい。密かに激しく鼻白んだ(なので最終的に私は今後10年間保険料の払い込みと補償が続く保険を選択した)。そもそも私は数十年どころが、数年後生きているヴィジョンすら明確に持ててはいない。なんせここ10年は情緒と生存への志向が安定していないのだから。「これは結局私が死ぬといくらになるの」と尋ねると、そんなことを口にするものではないと私の死亡時の保険金受取人は窘めた。こういうのは、お守りみたいなものなの。
ケーキを買いに行くことになった。母も私も甘いものが好きだから、それは嬉しいことなのだ。道すがらATMに寄り、毎月そうしているように下ろした3万円を彼女に手渡す。雨が降っていてケーキを買いに足を延ばすような日和とは思えなかった。1軒目に訪れたお店は定休日で、何故だか私は徐々に罪悪感を抱え始めていた。もう帰ろう、雨降ってるし、「お誕生日」が特別な年齢でも何でもないんだから。ここまでする必要なんかない。
結局2軒目で購入した若干お高めなケーキを食べている頃、私は大学時代の恩師とメッセージのやりとりをしていた。その人は「保険よりウクレレの方がヴァイブスが上がるよ」と教えてくれた。そして「おめでとう」を与えてくれた。誕生日に一喜一憂する年齢ではない、そもそも私は自身の存在が祝福されるに値するとあまり思えていない。それでも、不安定に浮遊する私の存在がこの言葉に「ここ」へ繋ぎとめられたような、そんな心地がした。
【アウトロダクション:新しく始めたくないこと】
さて、#MONTHLYTOPICSのタグがついてるからには今月のトピックについて話さねばなるまい。陳腐かもしれないが、○○歳の抱負というやつだ。とは言え私は駄目な人間で、当初こうなってはいけない、こんなことをしたくないと思っていたようなことは大抵始めてしまった。本を読まなくなること、お金の管理ができなくなること、コーピングの手段として自傷すること。それでも更に自分を損なうことがないように、まだ「ここ」になんとか繋がれてあるために、何をしないでいられるか。
「今ある関係を寸断しない」。実はこれまで何回か行ってしまったことだから、正確には「新しく始める」ことではない。ただ1つ歳を重ねて改めて、もう新たにはしたくないことだ。何度も断ち切ったにも関わらず、まだ途切れていない関係というのは(数えるほどしかないけれど)存在している。大学の恩師はそのうちの1つの例だ。そうした関係は、今回のようにふとした瞬間に私を繋ぎとめてくれる。もちろん中学の同級生のように自然にすり切れていくものはあるけれど、それに不自然に理由を探さず緩やかに振りほどいて、どうせ1つ解けたからと全てを千切らずに、手元に残ったものに繋がれていたい。