あまり知られていない事実だが、「さあ、今日も一日きばって地球のかけがえのない森林資源を破壊するぞ!」と目覚めるたびに宣言する洗剤会社の社員はさして多くない。仕事を選べる人間の数などたかが知れているし、さしあたっては住居費やら明日の食費、めぐりめぐって与党政治家の身内企業の懐に入る異常な額の税金のために、当座の仕事をやめるわけにはいかないのだ。
 好景気というものを生まれてこのかた見たことのない現代日本の若者に、人生は以下のように映っている。まず、卵子と精子がプロレスを開始する。ぐちゃぐちゃとした体液が栄養を与えられて固形化し、じわじわとトカゲのような形状になり、母親の体を長時間拘束する。その間、父親は人生最後の浮気をたっぷりと楽しんでいる。「ねえ、本当にあの人と別れてくれるの?」「もちろんさ。でもいまは、あの原形質野郎がいるからな……」だが、浮気はバレないように気をつけている間だけがロマンチックで愉快なものだと判っているから、彼は言い訳の類語辞典を作れそうな勢いで、いずれは破綻する問題を先延ばしにしている。さて、原形質野郎のほうは、産道からゴリッと出てきた直後はしばらく物心はつかないままだが、ふと気づいてみれば、現実世界をモデル化して自律的な意志に基づく判断ができる高度な頭脳を搭載した少年が、どういうわけか時給800円でコンビニエンスストアのレジ打ちをしている。高校生活はありきたり。学園祭でクラスいちのバカが器用にも焼きそばでカーテンを燃やし、生まれてはじめて消火器を使う。勉強、勉強、失恋、ぱっとしない勉強。パチスロのような綺羅びやかな演出とともに世界中の偉人をデリヘルするスマホゲームの美麗な二次創作イラストを眺めつつ、真珠色の精子を漏出させると、もう大学生になっていた彼は、かつて働いていたコンビニで、かろうじて桃の香りがしないこともない152円の缶酎ハイを買い、アルコール混じりの呼気を夜に溶かしながら、ふらふらと散歩を続ける。空の彼方には満天の星がきらめいているはずだが、ろくに見えない。青く屹立する高層ビルが、太陽系第三惑星の奥底を、恐竜の死骸から産まれた燃料でまばゆい光輝に染め上げているからだ。労働者たちは亡霊のように街を闊歩し、ひたすらに謝り、牛丼をかっこみ、マスクをすり抜ける花粉に悪態をつき、スターバックスの隅っこで唐突に泣き出してしまう。ブランコを揺らし、インターネットのように距離の感じられないくらやみに手を伸ばした彼は、たゆたう意識で、ぼんやりと人生のことを思うのだった。僕はまともだ。普通以上に頑張っている。内申書に監視されてくだらぬマナーを律儀に守り、地元の不良どもの誘惑をふりきって進学したはいいものの、社会学のゼミでは「君のやりたいことが見えないんだよね」などとお説教される始末。「どういうことを学びたくて、大学に来たの?」そんなもん知ったことではないが、大学に行かないとろくな仕事が見つからないのだ。そういうわけで、エントリーシートに嘘八百をならべたて、面接ではハキハキと受け答え、作り笑いが表情筋にしみつき、大学で学んだこととは縁もゆかりもない洗剤用品を扱う会社にすべりこむ。御社を選んだ理由は――「選んだ」? この人生に、なにかひとつでも自分の意志で選べたことなどあっただろうか。人間はいったい、なんのために生きているのだろう。少なくともいまの俺は、内心どれも同じだと思っている各種洗剤の使用感のアンケート資料から、自社製品を選ばせるために宣伝するべき項目を、貴重な二十代最後の人生を使ってせっせと整理している。街中にあふれる、ろくでもないコマーシャル。まっしろのTシャツと不潔なTシャツが、お前の人生はみじめだ、汚らわしくて価値のないものだ、だが本社の洗濯洗剤を買えばマイナスからゼロに戻せると教えてくれる。このコマーシャルさえなければ、世界に存在しなかったマイナスなのだが。だが、考えようによっては、まともな仕事といえるんじゃないか? 地元でくすぶってる、カラオケとボウリング以外に趣味のない連中と比べれば、給料が少ないわけでもなし、なにより洗濯洗剤は生活必需品だ。服をぴかぴかにしている。それなりに価値あることだ。やり甲斐がまったくないってわけでもない……そんなおり、カフェインで自分を叩き起こした土曜日の早朝に、こんな記事を目にする。〈洗濯洗剤の原料となるアブラヤシの伐採のため、違法な焼畑農業が常態化し、熱帯雨林が破壊されている。絶滅危惧種であるオランウータンの生息地が奪われ……〉だが、自分もいずれは頭のにぶい上司になるために、頭のにぶい上司のご機嫌をとり、くたくたになって帰宅する彼に、インドネシアの熱帯雨林のことを考える余裕はない。過労で脳のリソースは限界寸前、このうえ最後のやり甲斐さえ奪われてしまったら、いったいどうやって生きていけばよいのか。オランウータンに悪態をつく彼は、確かに冷酷にみえるかもしれない。だが、彼は自分のこころを守りたいだけなのだ。生まれつき熱帯雨林のオランウータンを虐殺しようと思っていたわけではない。
 一方、炎上する森で丸焦げになるオランウータンの意見はこうだ。
「ウッギャァアアアアーーーッ!!!!」
 労働者はないがしろにされている。昨今の文化はとかく批評家たちに見下されがちだ。非常に安っぽく、道徳的にも質が低く、素晴らしい時代の古典とくらべてうんざりするほどクソだ。謎を散りばめた展開は敬遠され、コンセプトが140文字で説明できる、痛快でストレスフリーで安心できる物語がもてはやされる。社会階層を縦断する痛烈な批評精神は求められず、現実から切り離された異世界で空想を満足させたり、閉じた親密圏でいちゃいちゃする箱庭みたいな恋愛ばかり……この程度の誰にでもいえる御託を聞きかじったことは珍しくないだろう。労働者はないがしろにされている。過労の合間のなけなしの余暇、ほんの少しの気晴らしに、いちいちご立派な社会批評など聞いている余裕はない。少しでもこの時間を楽しみたいだけなのだ。いったいだれに責められようか。
 そういうわけで、この短編は最終的に、労働の素晴らしさを賛美する展開になる。一般に流通している「お仕事小説」と比べて、卓越した部分はどこにもない。労働は素晴らしい。仕事はかけがえがない。本作のメッセージはそれだけだ。わたしたちの心に巣食う批評家の顔がもたげてきたら、すかさずこの言葉を心に唱えてほしい――「労働者はないがしろにされている」と。
「よくわかりませんね」東原警察署まで呼ばれた調査人、黒瀧榧は困惑していた。「密室の刺殺事件。犯行はガラス戸越しに第一発見者に目撃され、ナイフに指紋もある。発見当時の加納智恵のスーツには被害者の返り血がたっぷり付着していた。監視カメラの映像も、会議室に入っていった被害者以外の人物は、加納のほかにはいないことを伝えている。で、どこに問題があるんですか?」
「動機がないんだ」と宇賀ぬるみ刑事。
「それこそ警察の仕事でしょう。大きな声で、あることないこと聞き出せばいいじゃないですか」
「いいか」刑事が身を乗り出した。「被害者の阿弥川葉子は加納智恵の上司で、容疑者とは非常に懇意にしていた。もともと加納を殊能出版のいまの部署に引き抜いたのも阿弥川だし、事件の四日前には、加納とともに温泉旅行にいっている。同じく旅行についていった別の職員ふたりも、殺意の徴候などこれっぽっちも見られなかったと証言した。彼女たちはまるで姉妹のように、社内でもあまりに和気あいあいとしているので、部長は仕事に集中したまえと苦言を呈したこともあったぐらいだ。金銭面でもトラブルはなし。恋愛関係も、ひととおり洗ったがなんにも出ない」
「加納自身はなんと?」
「殺したとも、殺してないともいわない。はやく仕事に戻らせてくれ、そればっかりだ」
「大事な仕事なんですね」調査人は同情した。労働者はないがしろにされているからだ。
 宇賀刑事が小声でいった。「〈鳥籠さん〉の力を借りるわけには?」
「またですか? わが主さまは、午前中はたいがい不機嫌なのですが」
「どんな条件を出せば、呼んでもらえるのかな」
「もう呼んでます」
 宇賀刑事が署内をふりかえった。
 もこもこのペチコートで膨らんだ漆黒のゴスロリ・ワンピースを着た少女が、透明なガラスドアに激突する。派手な金属音。彼女の顔は、真鍮の鳥籠に包まれていた。観葉植物をぴりぴり千切り、ゴミ箱を四つほどひっくり返し、どうにか宇賀刑事の前に到達する。まったく同じ説明を聞いた〈鳥籠さん〉は、うなずく代わりに、宇賀刑事のデスクの小脇にあるゴミ箱を蹴飛ばした。
 調査人の黒瀧榧は、宇賀刑事とともに、マジックミラーをのぞきこんだ。
 薄暗い取調室に、鳥籠さんが入ってくる。対面にはうなだれている加納智恵。鳥籠さんはテーブルによじ登り、頭上にぶら下がる電灯に興味を示して、しばらくそれを小突いていた。呆気にとられた顔で見上げる加納は、不意に上半身を折りたたんだ鳥籠さんと片目があった。鳥籠さんは、籠の格子に指をねじ入れ、右眼を覆う黒の眼帯をゆっくりと剥がして、その中身を見せた。
「あなたはまだ血の味を知らない、――
 ――あなたもまた血の味を知りたい?」
 それで充分だった。加納智恵は、あることないこと話しはじめた。脱水症状になる寸前まで語り終えると、ひきつるようにのけぞり、パイプ椅子がうしろむきにひっくり返った。その頃にはすでに鳥籠さんは取調室を離れており、東原警察署にある缶コーヒーの自販機によじ登って、すやすやとお昼寝をしていた。彼女は署の間近にあるラーメン屋で目覚めた。大きく伸びをすると、時刻が夜であることがわかったのか、みるみる元気をとりもどした。黒瀧榧は、ダークスーツの内ポケットから真鍮の鍵をとりだし、鳥籠の扉を開いた。三人ぶんのつけ麺が運ばれてきた。鳥籠さんは、鳥籠を微回転させて扉を口元まで寄せると、麺をふうふうと吹いて、朝食をたべはじめた。
「それで?」調査人が、宇賀刑事にきいた。「どうして加納さんは、上司を殺したんですか?」
「部長の指示通りにしたんだ」と宇賀刑事。「仕事に集中しようと」