「塩梅を探る」第2回:社会との距離を探る

こんにちは。2022年のALTSLUM に毎月現れる予定の会社員、柿内正午(かきないしょうご)です。あらゆる物事は程度問題なのだとして、ささやかな日々の問いについて複数のものさしを駆使してあれこれ考えていくことを旨にしたこの連載、今月より本格始動です。

年が切り替わるタイミングってなんだか張り切って色々始めてみたりしちゃうんですが、皆さんはどうですか? 僕も先月はこの連載を始め、頼まれてもいないことにどんどん手を出してみる時期だったようです。それに伴い、限られた体力と気力の分配を見直す必要も出てきて、Twitter のアプリをスマホ から削除しました。アプリを消しただけで、Twitter のアカウントを削除したわけではないので、タブレット やPC からは今だってTwitter が見れます。なんならスマホ からもブラウザで開けば触れちゃうことに最近気がついてしまいました。とはいえこれだけでも効果てきめんで、なんとなく指寂しい時にとる行動の選択肢のなかで「Twitter のタイムラインを延々とスクロールし続ける」の優先順位がけっこう下がりました。微妙に手数が多い、それだけでこんなにも遠ざかれるのか、と嬉しい気持ちです。おかげでTwitter とは「自分が告知などでツイートするタイミングでちょっとだけ眺め、エゴサだけして終える」という関係を築けています。

さて、新聞やニュースサイトの購読をしているわけでもない僕は、情報のほとんどをTwitter で得ていました。かつては朝から晩までテレビをつけている祖父母の様子にカルチャーショックを受けたりしてましたが、僕だって似たようなもんで、ワイドショーの代わりにTwitter見てただけです。しかもTwitterの話題のほとんどは、醜悪なワイドショーを見た誰かの独り言から始まってたりします。ワイドショーが嫌いでインターネットで遊んでいたはずなのに、気がついたらワイドショー的な話題ばっかりが目に付く。そういうものから距離が取りたい気持ちもあってアプリを消したので──繰り返しますが今でもTwitterはやってるので、えらそうにSNS 断ちの効能を解きたいわけではありません──久しぶりに生活に静けさが戻り精神衛生上いい感じではあります。

この一ヶ月、比較的心が穏やかなのは、家の外で何が起きているかをまったく気にしなくなったからです。けれども、気がついたら都内の感染者が一万人超えていて、なんなら今これを書きながら調べたら二万人も超えていた、このくらい、自分の生活に直結する情報すらも取りに行かなくなっていることに気がついてしまって、これはこれでダメかも、と思い始めたところです。

でも本当にダメなんだろうか。あんまりよくわからなくもあります。べつに、僕は社会のために生きてるわけでもないし、僕が知らないでもいいこともあるよな、と。何でもかんでも知らなくてはいけない、という態度は、行き過ぎると自分の生活を疎かにしがちでもあります。感染症対策だったら、天気予報のチェクと同じように、公式発表だけ日次で確認にいく、というのでもいい気がします。いま必要な情報だけを、こちらから取りに行く。タイムラインでのフロー型の情報摂取に馴染みすぎて、僕はそういうあり方を忘れかけていたようです。

情報は取りに行くというという態度は、しかし偏った自分の価値観をより強固にするような自閉へと向かうことでもあります。タイムラインやワイドショーのようなフロー型の情報取得は、僕自身の偏向なんかお構いなしに、声の大きな人たちの偏った見方に身を晒すということです。これは、自分の都合や理想の通りとは到底いかない外界のままならなさから目を逸らさないことでもあるでしょう。いまの社会は過去の社会に引き続き腐っていて、蔓延る不正義を敏感に察知し声を上げなくてはいけない。そういう正義の実践は、たしかに文化的雪かきとして必要なことだとも思うのです。すこしでも、この社会をマシなものにしていくための実践。しかし、それは本当にタイムラインで行うべきものなのだろうか。

インターネットは土地や時間の制約を緩和し、これまでであれば出会うこともなかった人たちと連帯することを可能にしました。インターネットは、仲間を増やすツールでもある。けれども、際限のない公開性は、皆が皆と仲間になることはできない、ということを忘れさせてしまうのかもしれない。「自分が必ずしも仲間に入れてもらえないグループがあること」は当然のことでもあります。むしろ、あらゆる人が一つの原理に包摂されるという事態のグロテスクさは、「みんな仲良くしましょう」という規範に縛られた教室の息苦しさを思い出せば、すぐに納得できるかもしれません。インターネットにおいて、わかりやすい二項対立を煽る党派性が再生産されやすい一因は、誰もが「仲間外れになりたくない」という教室での焦燥感に似たものを抱いてしまっているからなのではないか、と僕は考えています。

僕は金曜日の学校がすこし憂鬱でした(本当はそんなことないのですが、この段落では便宜的に話を盛ります)。前日に「アメトーーク!」の放送があったからです。木曜深夜にこの番組をチェックしていないと、金曜のおしゃべりについていけない。仲間に入れてもらうには、テレビを見ることが一つの要件でした。あるいは、教室内外で起こる人間関係のゴシップにも敏感であった方が、仲間内でのおしゃべりは楽しいものになります。噂話というのは、共同体への所属意識を強めてくれますし、社会的動物としての本能的な快感を与えてくれます。僕は「アメトーーク!」は見てましたが、他人の恋愛事情なんかには全く興味が持てず、噂話のたぐいからはのけものにされていました。そのために、教室内で「炎上」し、のけものにされているような人と頓着なくおしゃべりをしてしまって、仲間内で顰蹙を買うということもあったはずです。

噂話の本質は裏読みです。かなり雑な腑分けをしますが、書いていないことを読み取るのは動物の本能的なデフォルトであり、あくまで文字通りに読もうというブレーキをかけるのが理性の役割です。理屈に偏っており、あいまいな身体性を憎んでいた中高生の僕は、教室における、噂話によって共同性を強化するような雰囲気が嫌いで仕方なかった。だからこそインターネットに惹かれたわけですが、そんなインターネットにまでいつの間にか噂好きな社交の場が侵食してきているような感覚があります。悲しいのは、インターネットにおいて中心にいるのは、かつて教室で息苦しさを感じていたであろう人たちで、僕はその人たちが教室内でのトレンドと関係なしにおのおのの興味関心を極めていくような雰囲気がとても居心地がよかったのです。いつしか誰もが仲間外れになる恐怖から噂話に動員され、アジールであったはずのインターネットで教室の苦しみの再生産がなされているように思えてしまうことです。これは流石に、僕自身を勝手に外界に投影し過ぎているきらいもありますし、それだけインターネットというものが誰もが使うものになったというだけの話な気もしますが。

仲間はいいものです。いたほうが安心だったり喜びがあります。先にも書いたように、インターネット以前は休み時間は自分の机に突っ伏して寝たふりをしたり、廊下を意味もなくうろうろすることで乗り切っていた僕のような人であっても、インターネットを使えば気の合う話し相手を見つけることができたりします。これは、本当にすごいことです。けれども仲間のいる嬉しさには中毒性があります。もっと、もっと仲間が欲しい。自分を仲間にいれてくれないグループは許せない、そういう視野狭窄に陥ってしまっては、孤立や疎外の感覚ばかり強めていき、本末転倒です。

仲間の自家中毒の一例として、あるひとつの「正義」を一元的に適用しようという態度があります。この方法は、わかりやすいですし、日々の判断コストを大きく下げてくれますので、特に文字数制限のあるSNS 上では「仲間」を集めやすいでしょう。でもそうした一元的な態度に慣れきってしまうと、べつに一つの「正義」だけで回ってるわけじゃない僕たちの生活の具体的な様子を見落としてしまいがちです。正対誤、善対悪、理性対情動、日々の生活は、そのような二項対立では構成されていません。タイムライン上では常に怒りを表明している人が具体的な生活の場でニコリとも笑わないわけがないし、最悪な発言ばかり連発するTwitterの「悪人」でも素晴らしい作品を制作することがある、というようなことを、なぜだか僕は見失いがちです。一個人は常に社会よりも複雑で、広大です。「その人が社会的にどうか」というのは、本来複数ある価値尺度の一つであり、あらゆる物事が社会にだけ還元される事態は、僕は歓迎したくない。

僕は学校があまり好きではありませんでしたし、教室内の党派性にも馴染めませんでした。それでも、なんだかんだ教室に居場所があると呑気に思い込んでいられたのは、どんなグループに属していた人であれ、話しかければ相手にしてもらえた、という経験があったからでしょう。いちばん派手なあの人や、格好良く剃り込んで気合の入ったあの人も、ふと二人きりになってしまったような時、たわいもない雑談くらいなら一緒にできる。コミュニケーションというのは、画一的な空間内での「仲間」の内側だけに許されているわけではなく、考え方や環境がまったく違う相手とでも、たまたま隣り合わせてしまえばおしゃべりができる。それは気まずいものになるかもしれないし、楽しいものになるかもしれない。なんにせよ、敵味方に分かれての議論ではなく、無目的で無軌道な毛繕いのようなやりとりが可能であるということが重要です。こういうとき、「あの噂は本当なの?」などと「仲間」の論理を持ち込んでしまったら、目も当てられません。個人と個人の具体的なやりとりとは、基本的に相手のことを複数の面のある複雑な人間として気遣う、ということからしか始まらないからです。教室の中では話しかけられないけれど、帰り道偶然一緒になることを密かに楽しみにしている、人間関係にはそういう二面性や、n面性があるものであり、そうしたあいまいさや煮えきらなさを、あまりに粗暴に単純化してしまうようなところが、いまインターネットのタイムライン越しに観測する社会という巨大な教室的空間にはあるような気がしています。

いま僕が欲しているのは、画一的な空間からはみ出たところで、自分の立場を決め切らないで、どこにも行き着くことのない、自己充足的な雑談をすることなのかもしれません。自己充足的な雑談は、雑談の内部で満足しているので、社会化されることも、社会からジャッジされることもなく、ただ雑談の当事者同士のグルーヴだけが求められる。ここまで、ののたくたと要領を得ない文章にお付き合いいただきありがとうございます。これも、僕なりのひとつの雑談の実践のつもりです。ALTSLUM のいうアジールとは、通学路の脇道のような、あいまいで割り切れないカオスをそのままに置いてもいい場所なのではないか、という思いでこれを書いています。

「ここまで読んだのになんも解決してないじゃん」

「インターネットって言ってるけどほとんどTwitterのことだし、主語がでかすぎじゃね?」

「え、結局現実世界の方が大事みたいな、おっさんの説教ですか?」

などなど、モヤモヤを残してしまったかもしれません。来月以降は、そうしたモヤモヤについて考えてみるかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。この連載は一人で完結させるつもりでもなく、誰かとの対談形式でやってみるのもいいんじゃないかと妄想しています。感想やおしゃべりの発案など、お待ちしています。

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