現象としての「望月める」について

「望月める」は、彼女自身の死によって、完成された1つの物語となった。

忘れられない女の子がいる。そのうちの1人が、インフルエンサーでありアイドルであった望月めるである。彼女は2020年12月に20歳で亡くなったことが報じられた。

彼女は生前、Twitterなどで「おじさん嫌い」を公言し、総額700万円の美容整形手術を重ねたことで注目を集めた。
そして、それだけの大金を稼ぐために努力する姿勢や、美容整形の壮絶な痛みに耐えてまで自分の理想の自分を目指す姿が、多くの女子の支持を得た。
現在では広く認識されている「かわいいは正義」というミームは、良くも悪くも彼女を象徴するのに相応しい言葉だろう。実際、彼女のファンの多くは、彼女を称賛する際にこのミームを用いていたように感じられる。

望月めるのファンたちは、日常的に向けられる「おじさん」からの性的なまなざしへの嫌悪感や、そうした「おじさん」たちに対するミサンドリーを彼女に託し、そこに権力構造を崩壊させる可能性を夢見て、憧れ、エンパワメントされていたように思われる。つまり、望月めるのファンが彼女に託していたのは、圧倒的な「かわいい」という力が、社会的な秩序を転覆させるかもしれない、という希望だったと考えられる。
彼女のファンたちは、SNSを媒介したメッセージを文字通り受け取り、模倣・拡散する。「かわいいは正義」というスローガンのもと、「望月める的な態度」は複製されていく。そうするうちに「かわいいは正義」というミームは、徐々に実体を帯びていった。

しかし、ファンクラブ料金の返金に関する不誠実な対応や、彼女に純粋に憧れる中学生のファンに対する態度に端を発する、晩年の彼女に対するバッシングの激化によって、「かわいい」が絶対的な正義にはなり得ないことが証明されることになった。

所感ではあるが、当初、「かわいいは正義」というミームは、美容整形の脱スティグマ化を目的に、あくまでも美容整形と結びついた文脈で用いられていたように思われる。しかし、そうしたミームはいつしか、望月める個人の、反倫理的な言動を正当化するためのものへとすり替わっていった。
それを加速させたのが、無限に欲望を喚起し続ける資本主義の速度や、SNSの可視化と定量化の文化であった。

美容整形が、上述したような自己実現のための自己決定として語られる際、それは実際には見せかけの自己決定でしかない。
実際、望月めるが美容整形によって収めた社会的成功というのは、例えばブランド品を多数所持したり、SNSで多くのいいねを獲得するといった限定的なものであったし、美容整形のための資金が男性を対象とした性サービスによって得たものであった以上、望月めるが達成した美容整形による自己実現は、既存の男性中心的な権力構造の内部に限定されたものであったと言えるだろう。

あまりセンセーショナルな書き方はしたくないが、望月めるにとっての美容整形とは、家庭環境に問題を抱え、受けるべき適切なサポートを受けられなかった彼女が、自らの価値を示すように絶えず要請し続けてくる社会の中で、どうにか生存していくための一つの手段であったと言えるのではないか。
これはつまり、望月める個人の「可愛くなりたい」という欲求と結びつく形で、彼女は「かわいい」によって武装することを余儀なくされていたということだ。
望月めるにとって美容整形とは、自らの価値を最大化し、社会に示すためのツールだったのではないだろうか。

望月めるを構成していた「美容整形という努力によって、自己実現や社会的成功を収める」という一連のストーリーや、SNSで度々吐露していた自身の身体に対するコンプレックス、そして家庭環境などに起因するメンタルヘルスの問題すら、現代では、替えが効く物語のうちの一つとして消費される。

容姿の美醜が人生を左右することや、そのために性を売ることが当たり前になっていること、男性が若い女性に対して権力を行使するのが容易であること。
望月めるを一つの物語として消費することは、そうした社会構造の問題や、人生・感情を物語としてパッケージングし、ビジネス化しようとした周囲の大人たちの責任を無視し、社会という領域を不可視化する。

「美容整形という努力によって自己実現を成し遂げ、なりたい自分になる」という物語は、男性優位の権力構造やルッキズムといった社会の問題を、「自分が変われば世界も変わる」として、個人の認識の問題に収斂させる。そして同時に、外的要因、つまりは社会的な背景を透明化してしまうという問題点を含んでいる。

心の底では「おじさん」に媚びず、美容整形によって自己実現を目指す「望月める的な態度」や、その短い人生の中で彼女がぶつかった数々の問題は、決して彼女固有のものではなく、普遍的な現象であることを指摘しておかなければならない。

望月めるを物語の一つとして消費してはならない。私たちは、望月めるが象徴的に示した、現象としての「望月める的な態度」の広がりに目を向け、向き合っていく必要がある。