「塩梅を探る」第4回:「ナメられる」を探る ②

前回は、社会って、みんなが使うシステムのはずなのに、現状「男」しか考慮されてなくない? という現状を改めて確認し、さらに「個々人の運用でどうにかするというのはバカらしいので、ちゃんとみんなにとって使いやすいシステムを整備することが必要」だということを明確にするところまでで力尽きました。

「個々人の運用でどうにかするというのはバカらしい」のはなぜかというと、使いづらい仕組みをどうにか工夫したり無理をきかせて使う必要が、ユーザーの属性によって固定的に割り振られてしまうという非対称があるからです。これがせめて万人にとってちょっとずつ不便なのであれば、苦労を分かち持つことに一定の納得感はありえるでしょうが、「ターゲットユーザー」=「男」以外の人間には不便であることは、誰もが社会に参加していることになっている現代において正当性を認めようがありません。

ここで絶対に間違えてはいけないのは、システムの改修が何よりも必要である状況下で、運用でどうにかしようと行動を起こすべきは現在そこまで苦労を被っておらず余裕がある「ターゲットユーザー」の側であり、すでに苦労を押し付けられている「ターゲットユーザー以外」の人たちの努力義務としてはいけないということです。

これは普段の労働のシーンを考えてみればわかるかもしれません。慢性的な人員不足が原因で多大な残業が発生している部署があったとします。この部署で労働者はそれでもなんとか早く帰るために業務効率の改善を工夫していくかもしれません。そしてそうした個々人の工夫による効率化が実を結び、残業時間がほんのすこし削減できたとします。それ自体は個人の誇るべき達成でしょう。けれども、このほんのすこしの削減をもってして経営者の側が「まだいけそう」と判断し、翌年度以降も人員の補充をしないまま、さらに案件を積み上げていくような判断をするとしたら、これは非常に理不尽な話だと感じないでしょうか。

「いまのままで社会は回ってるんだから、余計なこと言うな」という態度は、根本的な苦しみの原因から目を逸らし、苦しませている当の本人たちの努力にすべての皺寄せをもっていく、非常に甘ったれたものです。やめましょう。

先のたとえ話で言うと、僕のような「男」は「労働者」ではなく「経営者」の立場にあることにも注意しましょう。ふだんの生活ではじっさいには労働者に過ぎなくても、現状の社会システムの「ターゲットユーザー」であるという意味で相対的に「強い」位置にあるというのは、実感と関係なく事実だからです。

社会システムの設計の杜撰さによって、「弱さ」を押し付けられる立場にある人たちの苦しみがあります。一方で、「強さ」を押し付けられる苦しみもあるはずです。社会システムによって「男」は原則として「強さ」を付与されます。それは例えば給与体系だったり、試験での贔屓だったりとして存在しています。僕はこの押し付けられる「強さ」がイヤです。頼んでもいないのに、現行社会システムが良かれと思って僕に付与してくるあらゆる「強さ」が気持ち悪い。

こんな「強さ」、要らない……

だからこそ、僕は「前のめりにナメられていこう」と考えたのです。

「男」にとってナメられるとは、現行の社会システムの「ターゲットユーザー」として、「いや、そういう強さの方向にリブートする機能はいらないです」と示すことになるのではないか。ターゲットユーザーのニーズが減退すれば、そもそも今の仕様を意固地に守っていく理由もなくなっていきます。

「男」は歳をとっていくうちに、気をつけないと簡単にまわりの「ターゲットユーザー以外」の人たちにナメた態度をとるようになっていきます。けれどもそれは僕たち個人の「えらさ」とはなんの関係もない。ただ現状のシステムが僕たちに「強さ」を勝手に付与してくるものとしてあるからそうなっているだけなのです。

僕たちは積極的にナメられにいくべきです。というか、無思慮に他人をナメる態度をとる現状のシステムを警戒し、自分こそナメられるべき存在であるとあえて強めにバイアスをかけることで、今の社会のつくりのナンセンスさが際立ってくるはずです。

ナメられるという実践は、「ターゲットユーザー以外」の人たちを直接的には助けません。おそらく連帯にもいたりません。それでも、反射的に「ナメんじゃねえぞ」とキレ散らかすよりは、ずっと建設的だと考えます。

なにもこれは、「男」とは世界で最も愚かな存在である、という過剰な自己卑下を肯定するわけではありません。そもそも人間とはおしなべて愚かなのです。いまの世の中でそうした愚かさから、なぜか「男」だけが目を逸らすことができてしまうことが変なのです。人間とは、誰もがナメられて当然な部分を持っている愚かしい存在である、というところにまず辿り着くためにも、望まぬうちに下駄をはかされている「ターゲットユーザー」側の僕たちは、積極的に自らの大したことなさ、しょぼさ、バカさ、セコさを受け入れ、あらゆる属性の人間たちと同じ愚かさの地平に立つことが必要なのです。

そうしてはじめて、あらゆる愚かさをある程度カバーしうる「ちゃんとみんなにとって使いやすいシステム」の構想に着手できるのではないでしょうか。

と、これではほとんど前回の言い直しに終始して、またも具体的な実践に辿り着かなかった感じがあります。仕方がないですね。またまた次回につづきます。