「塩梅を探る」第6回:ポストモダンを探る

雑な話をする。

ものすごく粗雑に脱構築というものを要してしまうと、それは原理主義のパロディによって原理主義の根拠を無化するということだ。一見すると一元的に思える価値観の論理を過剰なまでに徹底することで、論理の不徹底を暴き出す。これは、不徹底を責め立てるということではない。一元的な論理の徹底など不可能なのだと示しているのだ。

脱構築という思考法は、一貫性への疑い、あらゆる物事をケースバイケースの程度問題として扱うためのものである。こう捉えていくとポストモダンという潮流はナンセンスな硬直化に陥りがちな近代的な知の体系を、より生活感覚に根付いたもの、具体的にさまざまな局面で使えるものにするための試みだったとも言える。ポストモダンのほうが生活の実相には近いのだ。ただし、生活者は生活の複雑な実相を直視するよりも、一面的な解釈のもとに思考を節約したがるものでもある。モダンで多義性に乏しい世界観は、効率がいい。いちいちケースバイケースで検討しなくてはいけない煩わしさから僕たちを解放してくれる。

便利で早い思考からの解放は、言語化できるできないに関わらず心身をくたびれさせ、できあいの統一規格から外れてしまうことへの不安感を増幅させるばかりでもある。モダンな疲弊を和らげるものとして、ポストモダンな優柔不断さはある。

日本の不良漫画などと、西欧の不良映画などを較べるとすぐに気がつくこととして、後者は最終的に既存権力に屈したり排除されたりする苦いラストが多いのに対し、前者はなんだか屈託なく自分たちの世界を維持し続けるようなものが多い。日本におけるポストモダンの需要の煮え切らなさと、この不良への態度というものは、同根のように思える。

日本の不良の原動力は、筋の通らなさに対する義憤だ。筋が通っていないことに憤っているのだから、首尾一貫した管理社会とははじめから新和的なのだ。たとえば『東京卍リベンジャーズ』は時間を遡ってまで筋を通そうとする話で、要は不良が秩序回復のために奮闘している。不良漫画の読者の快感とは、筋を通す気持ちよさだ。日本の不良は自分たちの一元的な世界観をどこまでも押し通そうとすることで、ある種の安定的秩序を実現してしまう。

それに対して、西欧の不良映画──ここではざっくりアメリカン・ニューシネマなんかを念頭に置いてる──の不良たちは、一元的な原理を押し付けようとする管理社会への不安に抗っている。そもそも道理なんか一貫させたくない、筋道の立った説明なんかクソだ、という苛立ちにこそ焦点が当たる。ここにおいて、日本の不良が屈託なく「よし」とする一元的な論理の徹底というものこそが問題とされるのだ。

西欧の不良の反抗はそのままポストモダンだが、日本のそれはむしろ近代化なのだ。なぜなら強固な近代的知性、絶対的な権力というものがまず強烈に信じられていた西欧と異なり、日本に近代というものははなから存在していないのだから。つねに場当たり的なケースバイケースで対処してきた日本において、既存のあり方への反抗は自ずと啓蒙主義じみてくる。合理的な効率化とは、近代を経ないままにつねにポストモダン的であった日本において、不良の論理だ。だからこそこの国の与党に親和的な人たちというのは、決まって粗暴な反抗者の身振りで、一面的でぺらぺらな「合理化」の旗を振るのだろう。彼らやその支持者の多くはおそらく、本気で自分を既存権力への反抗者と評価している。彼らの反抗の相手は、彼らの論理だけでは説明しきれない生活の実相の複雑さだ。仲間内の道理だけを一元的な原理としたいという、すこしでも検討してみればボロが出る幼稚な不合理が通用してしまうのは、一本筋を通したいという欲望、一貫性のある価値観のもとに統治されたいという欲望によって目を曇らされている結果ではないか。

不良漫画の快感は、そのまま与党的な価値観へと馴致される。

西欧社会が近代を乗り越えようと奮闘するために編み出した思考法がポストモダンだとする。西欧においてポストモダン的反抗は、いまだ意義のあるものだろう。ポストモダン的な状況をいまさら近代化しようという日本においては、ポストモダンはむしろ保守的であり、反動的に見えることさえあるかもしれない。

「なにをいまさらわかりきったことを、難解な文章で書いてんだ?カッコつけか?」

フーコーやドゥルーズを読んでいると、あまりの読めなさにこのような難癖をつけたくなるが、じっさい彼らは「わかりきった」生活の実相を、生活から簡単に遊離してしまう論理と言葉を駆使して描き出そうと苦闘していたのではないか。

一概には言えないですね。

ケースバイケースですね。

場合によりけり、なのでいまの時点ではなんとも……

僕が日常において使う優柔不断な語彙は、21世紀にもなって近代化を推し進める時代の趨勢に対する明確な反抗の徴だ。

この国の嫌さ、やだみ、気持ち悪さに抗うためには、強い意志のもとなされる断言ではおそらく不十分なのだ。煮え切らない、気弱な、一貫しない言動に僕はなにものかを託したい。

そんな気がしている。

日記のつもりで書いていくうちに、「あ、これ日記よりもALTSLUMかもな〜」と思ったので、こっちに発表することにしました。これまでと文体が大きく変わってしまいましたが、まあそれも一貫性への疑いの体現ということで。

また来月お会いしましょう。