「塩梅を探る」第7回:筋肉を探る

さいきん自宅で簡単な筋トレを行うのが楽しくなってきて、ついにダンベルを買いました。

ムキムキマッチョになってしまうかもしれません。

思い返せば、僕がなんとなくいつも抱えている身の置き所のなさは、小学校の体育の授業から始まったようです。あるいは幼稚園の相撲大会かもしれない。僕はその頃から、競技においてこの体は「弱者」であると突きつけられてきました。

この世のマチズモに対して一定の距離を取ることができたのは、僕がたまたま痩せの運動音痴で、家父長制的な価値観が根強い体育の時間や、そこで培われる「男子」の一群に入り損ねたからに過ぎない。そういう思いがあります。

仲間に入れてもらいたかったのに入れてもらえなかったとき、そのグループと自身との相性について反省するのではなく、一方的に対象となるグループへの憎悪を募らせるというのは、インセルの馬鹿げた論理と似ていておそろしいですが、あるいはそうした心理も働いていたかもしれない。

ともかく、己の肉体的優位を誇示し、グループ内でのポジションを得るというような人間関係のあり方の埒外で育ち、そのことで特に嫌な思いをしたこともない僕は、「弱い」体を持つ自分のことが嫌いではありません。なんならムキムキマッチョで自信過剰な、「いろいろとデカい人たち」の一群に自分が属していないことを誇らしく思うほどです。

だからこそいま僕は戸惑っています。

日々、トレーニングをやった分だけ、意識的に摂取するタンパク質を増やした分だけ、体が大きくなっていくことが、楽しくて仕方がない。もともと凧糸くらいだった腕が、いまでは菜箸くらいになりました。このペースで行くと来年にはドウェイン・ジョンソンになっているでしょう。

ドウェイン・ジョンソンになった僕は、地下道を歩く線の細い弱そうな人間にわざとぶつかって面白がったり、展示やライブを行う知らない人に得得とどうでもいい「アドバイス」を授けて気持ちよくなったりするかもしれない。かつて自分がやられてうざくて仕方なかった「いろいろとデカい人たち」の横柄で愚鈍な態度を振りまく側にまわる痛快さ。きっとそうした誘惑に屈してしまう。だって実際いま僕は「もっともっと筋肉をデカくしてえ」という欲望が湧き上がってくるのをうきうきと感じているのですから。このままでは筋肉にコントロールされて、ムキムキマッチョとして最悪おじさんまっしぐら……

ほんとうのところ、流石にここまで悲観していませんが、まるきり冗談とも言い切れない。僕にかけられた「体育の呪い」は根深く、かつて疎外され、こちらからも願い下げたムキムキマッチョの世界へと踏み込んでいくことへの恐怖は、小さくありません。

わかってますよ。自宅でできる程度の負荷ではドウェイン・ジョンソンにはなれないことくらい。じっさいのところ、このままコツコツ続けていったとして、ムキムキマッチョにはならず、そこそこ健康的になる程度でしょう。でもね、そういう話じゃないんです。

これまでまったくといっていいほど自分の体の大きさに無頓着だった僕が、筋トレによって案外簡単に体を大きくできることに気がついたとき、確かに僕の中に「デカいほうがいい」という価値観が芽生えたのがわかった。これが怖い。

毎日のようにトレーニングの理論や栄養学の本を読んだり、YouTubeの指南動画を見たりしながら、はやく体を動かしたいな、はやく筋肉痛が治らないかな、とにやにやしている自分は、はっきり言って不気味です。僕が、僕の変容についていけてない。僕の筋肉だけが先走ってどんどん大きくなりたがっていて、そんな筋肉を新しいハムスターか何かのように慈しんでいる自分もいたりする。いつの間にか、この僕の中に真新しい他者がいる。

まるで成長期のようです。あるいは、僕は思春期に、自分の体の変容と、それにつれて変態していく心の他人事のような不気味さを受け取り損ねていて、今になってそれを体験しているのかもしれない。

自ら自分のコントロールを手放すこと。すすんで自己を律すること。それは一面では既存の権力による管理体制への自発的隷属であり、もう一面ではそうした権力構造の外側に、ほかならぬこの身体という主体の根拠をきちんと展開するための実践でもありえます。従属と独立。筋トレとは両義的なものです。

大きくなりたがる筋肉と、弱いままでありたい自己とのあいだでびくびくと戸惑いつつ、いま僕は僕の知らない僕へと作り替えて/作り替えられています。