「塩梅を探る」第9回:友達を探る

友達が欲しい、ような気がしています。

約束もなく、わるくない人たちと毎日のように顔を合わせる学校という装置は、当時は鬱陶しいばかりだったけれど、なくなるとそこそこいい面もあったなとわかる。だからといって学校は未来永劫嫌いですが。とにかく放っておいても自分の席が準備されているという事態がなんとなく懐かしい気だけはします。

僕は人に誘われるのも誘うのも苦手です。自分のコンディションは気圧や湿気でずいぶんとブレるし、ニュースの凶暴さや、読んだ本の圧によって簡単に形質が変わってしまう。だから約束のその日に自分が楽しめる自分でいるかまったく信用できない。あ、と思い立ったらふらっと会える、そんな可能性にひらかれた教室や部室というもののすごさを思い知ります。

ALTSLUM のDiscord には「談話室」があります。たまに覗くと誰かがしゃべってる。あ、という気分の時、ふらっと寄って、人の声を聴く。いいな、と思う。しかし時間帯が不規則で、なかなか参加できません。入室できそうなタイミングはお風呂に入っているときだったりして、せっかく「こんにちは」と声をかけてもらえてもマイクをオンにすることができない。おなじ「談話室」にはいるのだけど、輪に入っていくことはできない。でもそれはマイクをオンにできたとしても同じことだろうとも思います。僕は大縄跳びみたいな会話のリズムをとらえ、うまく話せたためしがない。けれども、教室にいたころから、大縄跳びのぐるりで静かに微笑みながらただいるというのが好きだったことも思い出すのです。一緒にはいるけれど、仲間とまではいえない、そういう距離感でぬぼーと過ごすのは、もしかしたら相手からすれば不気味かもしれませんが、僕には居心地がよかったりする。

教室で仲間を作るのは羨ましさもありますが、怖さがまさる。僕はふんわりと仲間外れにされることのほうが多かったから、仲間の排他性が怖い。仲間にまでは入れてもらわなくていい、その周囲で好きに過ごさせてほしい。当時からそういう距離感で集団というものと付き合ってきた気がします。

  ↑このぐらいの場所がちょうどいい。

インターネット上の人間関係は、この遠巻きににこにこ眺める人たちを見えなくさせるところがあるように思います。教室以上に強烈に、「で、あんたはどっちの味方なの?」という無言の圧力をつよく感じ取ってしまう。

味方でも仲間でもない、ただ同じ場所と時間を共有するからという理由でなんとなくやっていく「友達」。そのくらいの距離感の人間関係の必要を僕は感じているようなのです。ぜんぶの大縄跳びにはノれないけれど、きのうのテレビの話とか、最高だったあの漫画の展開とか、二人の時にしか話せないようなこととか、そういう個別の交感の場ではたしかにお互いなにかを贈り合えたような手応えがある。そういう関係が。

全肯定か全否定かの二択ではなく、部分否定をはさみながら、お互いに妥協しながらをその場の共有を優先するような関係。そういう欺瞞が足りていないような気がする。譲歩できない部分は表明し、なんとか落としどころを探っていく。そういう信頼関係も大事なのですが、誰とでもそうやって全身全霊で付き合うのは疲れる。いまはもうすこし無責任な、ぺらぺらの交流を増やしたい。

たまたま隣り合ったその人は、僕の好きなあの音楽も、僕の大事にしている信条も、なにも共通していないかもしれない。それでも、静かに隣り合うことくらいはできる。そのくらいのことがしたい。そんな気分を「友達が欲しい」と名指しているのですが、仲よくしたいわけでも、派閥を作りたいわけでもなく、ただ隣り合いたいというだけなのであれば、友達というのはまた違うのかもしれない。同級生、とか、そのくらいの距離。どうでもよさに毛が生えたくらいの、ただ近いというだけの関係。そういうのって、大人になってから探してみると案外見当たらなくてびっくりしませんか? 僕はびっくりしています。