「塩梅を探る」第3回:「ナメられる」を探る ①

昨年三〇歳になって、僕は自覚しているよりずっとエイジズムを内面化していたのだな、と気がつきました。それは具体的に「いよいよ転職とか難しくなりそう」という不安と共に明らかになって、あらゆる差別というのはまず社会構造の産物であることがよくわかる事例でもあります。差別は個人の「気の持ちよう」や主義思想の話ではなく、具体的な制度設計の問題として捉えた方がいい。

僕が三〇歳になって痛感したのは、僕はもうずいぶんこのふぁっきん家父長制社会の中で権力の側にいるんだな、ということです。不正なパワーを持たされてしまってる感覚。年功序列的な会社に勤めているからこそ、より痛感するのかもしれません。会社というのは、というよりも事業というのは全般的にそうですが、驚くほど政策や世論といったものに左右されていきます。感染症の流行は、マジョリティの立場にある個々人の生活にまで行政の干渉がなされます。これはとても衝撃的な出来事ですが、そもそも人によって程度は違えど、社会システムという上部構造から影響を全く受けない場所はありません。僕たちは社会の不均衡を押し付けられた状態で過ごしています。むしろ、この二年間においてようやく「自分の生活様式は自分の意思だけでコントロールできるものではなく、もっと別のレイヤーでの決定が多大な影響をおよぼすのだ」と気がついた人たちは、これまでいかに現在の社会のありようにとって設計思想にぴったりとフィットしていたかということにこそ、異常さを感じたほうがいいのかもしれない。既存の社会の規格にフィットしていることが「正常」とされていますが、そうではない。予期せぬ運用を望む者として社会の仕様から除外された人間を「異常」と呼んで切り捨てることこそ異常です。そうしたフィットしない人がいるというのは、社会というシステムの要件定義不足があるということです。社会というのは本来、「誰もがそこまで悪くなく生きていける」ために構築されるシステムであるからです。ターゲットがすべての人であるのだから、考慮が漏れていたユーザーを排除するという選択肢はありません。

ユーザーは基本的に「男」であるという前提のもと開発された社会というシステムは、いま現実に使用する人たちとあまりに乖離しています。そしてこれは大前提として、システム側を替えないことには快適にはなることはないのです。「運用で回避してください」という現場への負担の押し付けではもうどうしようもないところまできている。社会のありようというのはシステムに過ぎません。だましだまし現場の創意工夫で延命させるようなものではないのです。

前置きが長くなってしまいましたが、これから僕が探っていきたいのは、「とはいえシステム開発者にまったく期待できないいま、現場レベルでできることってなんかないの?」ということです。根本解決にはならない。でもムカつくからなんかカマしてやりたい。そんなとき、なにができるか。

黙ってぼーっと過ごしていれば、簡単に快適で、偉そうな感じで過ごせてしまうかもしれない。僕はこの現状にぞっとします。

さすがに特定の人にだけ最適化すぎてない?

現行システムのターゲットユーザー像にある程度合致しまっているからこそ、そこから意識的にズれ、抜け出すこと。「いやいや、僕としても今の仕組みは全然使えたもんじゃありませんよ」と示すこと。あるいは、僕のような人間だけが楽をするのではなく、いまある偏りを撹乱し、同程度の苦労をある程度均等に分け持つように仕向けること。

ひとまず今の自分にできそうな異議申し立ての身振り、それはなんだろう。そのような自問自答の果てに──

積極的にナメられにいくというのはどうだろう。

今月のタイトルの示す通り、そんな思いつきを得たわけですが、今月は長い前置きで疲れてしまったのでここまでです。