210311_故郷のこと

サイレンの音で目が覚めた。
半分眠りの中の頭で、世田谷区の防災無線が「避難訓練」とアナウンスするのを聞いた。
こんな朝早くから珍しいなぁ、それでだんだんと覚醒しながら、今日が何の日かを思い出した。

私は自分が被災者として振舞うべきなのかを、あの日からずっと考えている。

福島の海沿いの田舎町で、私は高校を卒業するまでの18年を過ごした。
私はその土地を愛していなかったし、一刻も早くそこからいなくなりたいと思っていた。
田舎の閉塞した空気は私を押し潰し、娯楽といえばパチンコしかない町の退屈に発狂しそうだった。
今だってちっとも愛していないのだ、日本中の人がその名前を知っている町のことを。だから私は東京で生きている。

18歳の私は、行きたかった私立大学は親に猛反対され、入れるだろうと思っていた国立大学には前期で落ち、もう散々な気持ちだった。最後の望みをかけた東京の大学の後期試験を受けるため、母と二人で宿に向かっていた時だ。乗っていた京王線がグワンと変な揺れ方をした。一瞬、車酔いのような気持ち悪さがあった。ガラケーから家族や友人、先生になんとか連絡がつくと、どうやら地元が大変なことになっているらしいが、私の知人はみな無事のようだ。慌てふためく母の隣で、私はなすすべもなく、次の日に受ける数学の問題集を読んでいた。緊急停車した京王線はその日夜まで動かなかった。

次の日の試験は予定通り朝から行われ、私は解答用紙を全て埋めた。試験が終わり、大学の門の前で心配そうに待っていた母に「多分受かったと思う」と言い、二人でマクドナルドでお昼を食べた。これからどうなるかわからないから、受かったときのためにと新宿の不動産屋で4月から借りるアパートを決めた。その不動産屋のテレビで、福島第一原発が爆発する姿を私と母は見た。

それから1ヶ月、親戚の家を転々として過ごした。実家から避難した妹と父も合流し、福井にある母の実家で、大学合格通知の電話を聞いた。そうして実家に帰れないまま、私の東京での学生生活が始まったのだった。

私は震災がなくても、あの春に地元を離れることが決まっていたのだ。でも私の妹はそうではない。中学生だった妹はその後地元に戻れず転校を余儀なくされ、そのまま避難先の高校へ進学した。自分の意志でそこから離れた人間と、否応なく見知らぬ土地へ移ることになった人間と、失ったものが同じだと言えるだろうか。あなたと同じだという顔をして、私は被災者のそばに立てるだろうか。私にはあなたの気持ちがわかると言えるだろうか。

だから私は、何も失っていないと思って生きているのだ。私には乗り越えるべき痛みなどないと思って。
それなのに今日はニュースもSNSも開くことができない。あの退屈で、いまだに愛することのできない町の名前を目にするだけで胸が苦しくなる。最近も大きな地震があり、またあの町の名前がTLに溢れた。多くの人がその名を見て10年前の震災を思い出すとき、私は母が仕事を終えて帰ってくるのを妹と二人で待っていた時間を、汗だくになって自転車を漕いだ学校から家までの長い登り坂を、街灯がほとんどなく虫か蛙の鳴き声しか聞こえない実家のまわりの真っ黒い夜を、親の車の後部座席に寝転んで見上げだ窓から見えた空を、思い出している。

10年経っても私の立ち位置はわからないままだ。ただ私と同じようにグラデーションの中に立つ人がいるなら、私はその人になら故郷のことを正しく話せるだろう。愛すことも憎むことも、失うことも取り戻すこともできず曖昧なままあの日に固定された故郷のことを。