「死ねよ」

「お前が死ねよ」

藤野可織『ピエタとトランジ』(講談社)で最もラブリーな一節は間違いなくここだ。異論は認めない。ここがあるからこそ私は『ピエタとトランジ』を絶賛している。

なぜか身の回りで事件が起き続ける特殊体質の天才探偵トランジと、トランジを恐れずに好奇心ひとつで近寄ってきた不躾なクラスメイト・ピエタ。同作はこのふたりの女性の、10代から80代までの旅路を描いたミステリーである。いや、ミステリーであると言えるのかよくわからない。謎は大した問題ではないからだ。重要なのはピエタが「死ねよ」と言ったらトランジが「お前が死ねよ」と返す、そこなのだ。同じ高校に通っていたふたりが違う大学に入っても、トランジが姿を消し、ピエタが結婚しても、あるいは世界が崩壊に近づき、ふたりが奇妙な集団から追われる身になっても、結局ピエタとトランジは共に生きることを何度でも選び直す。その間ふたりの周囲では、トランジの体質によって本当に大量の人間が死に続け、奇妙な事件が起き続けるが、ピエタだけは死なないし、ふたりにとっては謎などもはやどうでもよくなってしまうのだ。重要なのはピエタがトランジにとってのピエタで、トランジがピエタにとってのトランジであること、そればかりなのだ。これはとてつもなく正しいことだ。

作中、ふたりを隔てる最大の脅威は、人が死にまくることではなく、またモリアーティになぞらえてふたりに敵対するピエタの旧友・森ちゃんでもなく、ピエタの結婚だろう。ピエタの夫は頭部が燃えた状態で現れる。「ぼくは(ピエタの名前)のために生きる。(ピエタの名前)はぼくのために生きる」という提案をした瞬間から、夫はピエタの目にそう映るようになった。夫がピエタをどう呼んだか、それはぐちゃぐちゃと塗りつぶされていて読めないようになっている。当たり前だ。トランジが呼んだ名前じゃないなら、そんなのなんの価値もない。このこうこうと燃え盛る火の前で、ピエタは「ピエタ」という名前を忘れている。ピエタは燃える男を見ながら、自分の人生の最良の時間が過ぎたことを知る。

トランジとは、「腐敗した死骸の像を設置した墓碑」のことだという。くどいほど芳潤に死をまとったその人を、ピエタは心の底から愛している。ピエタは夫に避妊をやめることを提案され、反射的に夫を殺そうとした。それを止めたのは、当然ながら失踪していたはずのトランジだった。トランジが止めたのは燃える男の死ではない。ピエタの殺人だ。なぜトランジがピエタがセックスをする寝室にいるのか? そんなことは全く問題ではない。

生まれたかもしれない、というかピエタもぼんやりとその道へ足を踏み入れかけていた新しい命の道を引き返し、より豊かな死の中へ分け入る。ふたりはその覚悟を、殺されかけた夫の前で確かめ合う。ほら、世界なんかどうでもいいでしょう。知ってたよ。知っていた。ピエタもトランジもそれを最初から知っていたはずだ。知っていたのに、それを選びきることは、ものすごく難しかった。火は燃えながらそこにあった。そういうことなのだ。女たちはそういうものによって、簡単に隔てられてしまう。

平庫ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』(KADOKAWA)においてふたりを隔てたのも、ある意味では炎だったのかもしれない。マリコを真っ白く焼いた火。シイノには見ることのできなかった火。

『マイ・ブロークン・マリコ』は、営業職の会社員・シイノが、中華料理屋のテレビで偶然親友の自殺を知るシーンから始まる。子どもの頃からつるんでいた無二の「ダチ」マリコが、中野のマンションの4階から身を投げて死んでしまった。シイノには何も言わずに。

シイノはマリコの人生を知っている。ぼろぼろのアパートには怒鳴り散らして暴力を振るう父親がいて、母はマリコを置いて家を出て行った。マリコはぼこぼこに殴られながら必死に母親をつなぎ止めようとしたが、その努力もマリコが父親にレイプされたことで全て水の泡となる。母からマリコに与えられたのは新しい生活ではなく、「誘惑したお前が悪い」という捨て台詞だった。父親はまた酒を飲んで暴れている。マリコは奪われ続ける。

大人になれば逃げられるのか? 傷はそう簡単には癒えない。自傷行為がやめられない。マリコは暴力を振るう男に救いを求めては、また何度でもぼろぼろになった。シイノは問題が起きるたびにマリコを助けるが、マリコは奪われるとわかっていて暴力の磁場へ引き込まれていってしまう。すくう、戻る、すくう、戻る。終わりがない。マリコを出せとわめく男をドア一枚向こうに隔てて振り返ったシイノの目には、うれしそうにシイノひとりを見つめるマリコの顔がある。

 「シイちゃんがいるってことしか わたしには実感できることってないの」

そう言ったマリコは死んでしまった。

いてもたってもいられなくなったシイノは、決死の覚悟でマリコの父親からマリコの遺骨を強奪し、身ひとつで夜行列車に乗り込む。行き先は遥か遠い「まりがおか岬」。かつてマリコが言葉遊びの延長線上で「行きたい」と言った場所であり、二人で行こうと約束してそれきり行けなかった海だった。シイノとマリコ、二人きりの、最初で最後の旅が始まる。シイノは必死にマリコの聞こえない声に耳を傾け、記憶の中のマリコが遠くそれに答える。膝の上で骨壷が鳴っている。

シイノはマリコがひとりで死ぬぐらいなら心中したかったんだろう。でもマリコは心中しようなんて言わずに「シイちゃんの子に生まれたかった」と言う。対等な関係を望んでくれないのだ。お互いに平等に責任を握りしめて生きる、あるいは死ぬ覚悟を、マリコは決めてくれなかった。決められなかった。

シイノはマリコを救いたかったし、自分に救われてくれないマリコが心底歯痒かったのだろうと思う。どれだけ求めてもマリコはすり抜けてしまう。どうしようもない痛みだけは教えてくれるのに、その痛みに差し伸べたつもりの手は指をさすられるばかりで、最終的には握られない。目の前にいるのに。目の前にいるのに。

マリコはシイノに救われる前に、二人で全部振り切って逃げる想像をする余地を見つける前に、期待を抱かない訓練をいっぱいいっぱいに詰んでしまったのだ。そういうのはもう、関係性のなかでどうこうできる話ではないのだった。あとはマリコの心の中の問題で、それが「ブロークン・マリコ」たるゆえんで、いくら「マイ」をつけても、マリコが壊れるのを止められなかった。生きている間、何も受け取ろうとしてくれなかったマリコ。マリコの問題なんだとわかっていても、シイノは目の前にいたのに与えきれなかった自分がクソほど憎い。自分で救われてくれないマリコのことだって憎い。それはそれで傲慢で、身勝手な振る舞いなのだろう。でも考えざるを得ない。私はあなたに何ができたのか。

後悔をかき分けながら、それでもシイノが必死にマリコの声に耳を傾け、いないはずのマリコのための行動を必死に考えることを、誰一人にだって無意味だとは言わせたくない。考えてもみろよ、なんの公共性も得られなかった関係に、唯一何か「事実」みたいなものを残せるとしたら、もう弔いしかないのだ。結婚できない、住んでいる家も違う、同じことを二人で成し遂げるとか、仕事上の繋がりすらない、そういう二人でどちらかが焼き尽くされてしまったら、もう残された側に左右できるのは骨だけなのだ。「一緒に生きたい」はおろか、「一緒に死にたい」とすら言えなかったふたりにできるのは、もうそれだけだった。

ピエタとトランジは死者でふたりだけの道を作り、マリコはシイノを置いて死者になってしまった。死によって炎は、世界は、初めて後背に退く。こんなに心臓が痛み、同時に愛おしいことはないが、そこまでしないといけなくなってしまうことの悲しさも、間違いなくある。もちろんこの世に存在する「ふたりの女」の物語がいずれもそのようなものであるわけでは絶対にないとわかっているし、この二つの物語が全く別の場所から生まれた全く別の物語であることも十分理解しているけれど、私の視界に浮かび上がった炎、死、女が、常に無関係であるとは思わない。

私は極端なことも極端に在ることも死ぬほど大好きだが、やっぱり全部燃やすか自分が燃えるかの二者択一を迫られる道しかないのは、この世の遅れに他ならないだろう。いや、道ですらないのかもしれない。ぼうぼうと燃える炎の真ん中に、横に二人並ぶことすらぎりぎりの、細い細い道がひょろりと持ち堪えている。勇気とか決断とかではなく、そもそも入り口すら目に入るようにはできていない。

なあシスター、私はいつもあなたがたに狂い、錯乱し、暴動を起こそうと呼びかけるけれど、やっぱりそれがきつくてしんどいことも知っている。本当なら狂わなくとも、錯乱せずとも、暴れずとも、思うがままに道を選び、死の影や骨を踏む音に怯えずに歩みを進められるなら、それは間違いなくよいことだし、そのようなことが可能になって初めて、同道できる他者は見違えるほどに増えてくるはずだ。私の道ではなくても、たくさんの女性たちが気軽に横並びで歩いていける道がこの世にはもっともっともっと必要で、現状到底足りていないのだ。私はいつもそれが悔しくてならない。世界が遠のくことはとても愛らしいが、世界の側をこっちが引き寄せてやる腕力が欲しくて、そしてそれが叶わない無力さが、とてつもなく屈辱的なのだ。

物語りが必要だ。女と女の、クィアとクィアの。「ここには道がある」と語る言葉が、この世にはあまりにも足りない。この世で最も激しい炎の渦中からバス停のベンチに至るまで、全ての景色を語り直さねばならない。ひとつふたつでは足りない。何千何万と欲しい。この欲望に関しては、いくら貪欲になっても許されなければ、絶対におかしい。(了)