「塩梅を探る」第11回:効率を探る

みなさん、効率って好きですか? 僕は時と場合と程度によります。

僕は、Twitter社員であれば辞職を決断するレベルの週40時間労働を定められている会社員です。しかもこれは下限であり、残業時間は含まれていません。ロバート=オーウェンが「8時間の労働、8時間の余暇活動、8時間の休息(Eight hours labour, Eight hours recreation, Eight hours rest)」と提唱してから200年。現代っ子である僕は8時間以上寝たいし、お風呂や食事も休息とするならばすくなくとも10時間は休息に充てたい。自由に使える時間に行うこと、映画や音楽などの作品を摂取したり、文字を読んだり書いたりなどの活動は8時間くらいやってもいいでしょう。

そうなると労働に割ける時間は6時間が限度です。本来6時間しか働けないはずなのに、最低でも8時間働かされる。この2時間のギャップをどう埋めるのか、そのための創意工夫としての効率追求が、僕は嫌いではありません。いや、そんなに働かせるなよ、という世への憎しみがないではないですが、厳しい環境の中でなんとかやりくりするという営為自体は、うまくいけば自身の「やっていける感」を育んでくれます。

日々の生活コストを切り詰めて「やっていける感」を保持していくのに必要な金額を抑えたり、自分にとって体力の消耗が激しいタスクをうまくサボったり人に頼ることで時間や元気を捻出したり、そういう工夫はある程度面白く、楽しいことだと思います。

ただ、これはあくまで僕がのびのびと余暇を豊かに過ごすための、あるいは余暇それ自体を作り出すための工夫であって、働かないで済む理想の社会であれば本来しなくていい苦労であるという考えを無視することはできません。楽しかろうが、不当に強いられてる努力であるという意味では生活の効率化やコストの節約は労働と変わりないのです。

こうした効率趣味、節約志向が手段から目的に転じてしまうようなとき、僕は、あ、いま効率フェチが度を越して労働になったな、と思います。効率化のために自身の魂の気高さまで明け渡してはいけない。僕たちは忙殺されがちな生活の中でそれでも気高くあるためにこそ効率よく日々の雑事をこなすことを目指すのだから。

RTA というのはゲームのニッチな遊び方のひとつであり、効率というものの優れたパロディです。この諧謔を真に受けて人生全体に適用してしまうと、無際限な不条理に陥るか、論理的帰結として早死にすることになるでしょう。

身の回りを見渡すと、効率を求めることで作り出されるナンセンスな状況が多く目につきます。効率をよくしたいと工夫を凝らすことと、貧乏くささを甘受することは違います。確かに便利かもだけど、生活の豊かさを損ねてるんじゃないか。そういうものに、おぇッと感じていたいと僕は思っています。効率がいいというのは、仕様通りの挙動をすることを受け入れるということです。システマチックな楽さに乗ってスムースに行為するとき、僕たちは要件定義にないイレギュラーな動きを許されていない。

効率よく設計された社会は、僕たちが定められた規格の通りに行為するあいだはとても快適です。一種の遊戯として、無駄なく美しい動きを目指し、じっさいに達成できた時の快感もかなりの楽しさです。けれども設計時に想定されていない無駄や余剰のほうに豊かさを感じ取り、不合理な愛着を持ってしまう僕のような人間は、大勢が誰かの都合で構築された味気のないシステムに自発的に隷従する様子にぼんやりとした恐怖を覚えもします。

僕は規格通りの正常値として「やっていける感」ではなく、各々の個体差のある不完全で不定形な人間のままに「やっていける感」が欲しい。これはもしかしたら、もはや瀕死の近代的人間観なのかもしれませんが。そう簡単にOS のアップデートができないのも人間というものでしょう。人間が近代的自我を完全に時代遅れのものとできるには、まだまだ時間が必要でしょう。すくなくともあと二、三世代は。

いまだ近代的自我にとらわれている僕としてはせめて、効率というものと、自分が人間らしく生きるための道具の一つとして付き合っていきたいものだと感じています。