「塩梅を探る」第12回:お金を探る

みなさん、お金はお好きですか?

僕は好き嫌いとかでなく日々の生存にどうしようもなく必要なものとしてしゃしゃり出てくるから嫌いです。とはいえ現代社会では必要なものなので、常にこだわり続けてもいます。

お金というのは社会からの切断、個人の自由を実現する道具です。お金持ちは反社会的であるというのはほとんど同語反復なわけですね。

僕は社会的動物であることからなるべく逃避していたいので、それさえあればまるで一人で生きているかのように錯覚できるというお金の機能に「助かるな~」という気持ちがあります。それと同時に「資本主義滅びないかな~」とも思ってます。お金に助けられつつも、お金に苦しめられている。この居心地の悪さは何なのだろうか。

おそらくこの据わりの悪さは、僕の中で「お金」という言葉をまだまだ分解しきれていないというか、複数の概念が同居しているということでしょう。ではどのような概念がくっついてしまっているのか。先に結論を述べると、「貨幣」と「資本」に分けられるはずです。おおざっぱにいえば「貨幣」は「助かるな~」という気持ちを、「資本」は「資本主義滅びないかな~」という思いを引き起こしている。どういうことでしょうか。もうすこしていねいに見ていきましょう。

ここまで漫然と「お金」と書いてきましたが、僕はこれを主に「貨幣」を指す語として使っているようです。「貨幣」とは交換のツールです。たとえば僕がパソコンを新調したいとき、もし「貨幣」がなければ大混乱に陥るでしょう。パソコンと等価で交換することができるモノとはどんなだろう、リンゴ百箱? 歌と踊りの奉納(三日)? 二週間の家事代行? そもそも誰にそれらを渡せばいいのだろう。メーカーの営業? 工場の従業員? 原料の採掘を行う人? 厳密に純粋な交換を考えると、そんなことはほとんど不可能であることに気がつきます。そこで「貨幣」です。ドルだとか円といった共通の尺度で設定された価格を代価とすることで、僕たちは混乱なくパソコンを手に入れることができる。「貨幣」とはこのように、異なる物Aと物Bの交換を簡単に実現するためにあいだに入ってくれる仲介者のようなものです。

先にお金というのは社会からの切断の道具であると書きました。「貨幣」は共同体のしがらみから影響を受けることなく、どこでも同一の尺度として機能します。嫌われ者が払う100円と、村の有力者が払う100円は同じ100円の価値しかありません。社会的文脈を切断し、フラットな価値の尺度をつくりだす「貨幣」は、この意味で平等ですし、僕たちの自由の領域を広げもするでしょう。

さて、ではお金のもう一面、「資本」とはなんでしょうか。「貨幣」が交換のツールであったならば、「資本」は生産手段です。資の本、なにかモノを作るための元手というような意味の言葉です。僕が「嫌だな~滅びないかな~」と感じている資本主義とは、つまり「元手がある人が優勝主義」とでも言い換えることができます。たとえばたまたま何世代か前に世田谷あたりの野原を購入した一家に生まれつけば、その土地を元手に家賃収入を得たり、改築して工房や事業所にしてみたり、住み続けるにしても月々の家賃とは無縁の生活が営めます。一方で片田舎の賃貸住宅で生まれ育ち、大人になってから就職のために上京したような人は、自分の作業場も満足に持てず、なけなしの賃金の大半を壁の薄い一室の家賃に持っていかれます。この両者に何か違いがあるとすれば、「たまたま元手がある/ないところに生まれた」くらいしかありません。けれどもこの違いが、資本主義社会では決定的な差となってくる。

元手=資本がある人はどんどんなにかを作り出して豊かになり、資金がなく日々の生活費を稼ぐので手いっぱいの人は何も作れないままいつまでも貧しい。資本主義社会に「なんか嫌だな」という感じを抱くのは、たまたま生まれつき、あるいは幸運によって資金を得た少数の個人だけに有利な設計で、当然の帰結として格差のような不平等を拡大再生産し続ける構造をもっているというところに大きな理由があります。

なにかを作るためには場所や、設備が必要で、買うにせよ借りるにせよ元手が必要になります。元手がない人は、元手を作らなくてはいけない。けれども元手をつくるためになにかを生産するにしても、元手がないから作れない…… 資本を得るためには資本が必要。この循環話法を前に無力感を募らせてしまう人は多いのではないでしょうか。

ここで不思議なのは、元手となる資本とはほんらい何かを生産するための土地や設備のことのはずなのに、現代に生きる僕たちは素朴にそれを「お金」とだけイメージしがちであることです。先の土地の所有者であるか否かという例え話が、あっというまに家賃の話にすり替わってしまったように、単なる交換の仲介者であるはずの「貨幣」が、いつのまにか貯蔵し、相続し、増殖する「資本」へと変貌している。じつは、ここに現代資本主義の根深さや克服の困難があります。「お金」が「貨幣」と「資本」の両方を内包した言葉であることは、現代資本主義を成立させる大前提でもあったのです。

ほんらいは土地や設備や技術のような生産の元手であるはずの「資本」も、その多様さによってそのままの形では交換することが難しい。そこで「資本」の価値尺度としても、すぐれた統一規格である「貨幣」が採用されたのです。「貨幣」が「資本」の価値を定めるものさしになったことで、「お金」という一語が交換と生産どちらも担う万能ツールとしてふるまうようになります。

あらゆる社会的な文脈や関係性から個人を切断してくれるフラットな交換ツールであるはずの「貨幣」は、生産の元手である「資本」と魔合体することでいつのまにか不平等の原因へとズレ込んでいく。しがらみや不合理だらけの人間社会にシンプルな平等を実装するための道具であった「貨幣」が平等に分配されることのない状況は、平等を実現するツールの不平等な分布という事態を引き起こしています。お金がある人は社会のことを気にせずのびのびと個人を謳歌できる一方、お金がなければ社会の動向が切実に身に迫ってくる。そのくせ社会に影響を及ぼそうとしても、価値尺度が「貨幣=資本」であるかぎり、元手のない側の分はつねにかなり悪い。けっきょく社会の動向を決定するのは「資本」のある人たちで、彼らの投資の目的は自らの「資本」の増殖ですから、見かけ上はたしかに「豊か」になっていくかもしれませんが、それは「貨幣」がますます局所的に集中して貯め込まれることしか意味していません。ほんらい交換ツールに過ぎないはずの「貨幣」のありかが偏っていくと、ダイナミックな物と物の交換が滞り、経済は停滞していくのは当然の帰結でしょう。

現代資本主義社会の内部から「お金」を考えるとき、「貨幣」と「資本」を分離することは原理上不可能です。それでも、僕はぼんやり夢想してしまうのです。どうにかこの二者を分離できないもんかな、と。元手がなくとも小さな規模で生産と流通を簡単に担えるようにサポートしてくれる交換の道具として「貨幣」だけを取り出せないかな、その「貨幣」はおそらく貯蔵できず、つねにA地点からB地点へ、B地点からC地点へと絶えず流れ続ける血液のようなものになるのではないかな、そんなことを妄想しているあいだに、2022年も暮れていきます。

この月イチ自主連載は本年の一月に始まり、今月の更新でひと区切りにするつもりです。お金の塩梅は主語がデカいところから始めざるを得ないのでこうなりましたが、本当であれば個人の規模でのやりくりの話にまでもっていきたかったところ。このへんは今後また不定期で書き散らしていくかもしれませんし、面倒なので放っておくかもしれません。

ひとまずは、一年間ありがとうございました。みなさま、よいお年を。

お金じゃなくて感想が欲しいな!