「塩梅を探る」第8回:お休みを探る

夏休み中にすっかり曜日感覚や日付感覚がバグってしまって、気がつけば今月も終盤。

この自主連載は誰に頼まれるわけでもなく月イチの更新を心掛けているのですが、いっそ休載にするのもいいかもしれない。

普段から隙あらばだらだらしているからでしょう。いまだに休むというのがどういうことかよくわかっていません。それはたとえばこの連載の更新を一回やめてみるというように、行為の中断を意味するのだろうか。なんだかそういうことでもない気がする。休むというのがなにもしないことだとすると、それはほとんど瞑想と区別がつきません。そして瞑想はわざわざ瞑想と呼ばれてありがたがられるからには、休むのとはまた違ったなにものかでしょう。

休日ってなにしてるんですか?

他愛もない雑談の中で出てくるこの問いかけが、僕はいつも恐ろしいです。目の前で朗らかに社会性を発揮しているこの人が、家の中でひとりでいるときにどんな顔をしているか、想像しようとするとそのわけわからんさにくらくらしてくる。社交の場で発する質問として、これはかなり際どいんじゃないか。相手のプライベートな暗がりにずかずかと踏み込むような乱暴さを感じます。

けれども、僕はいま誰彼構わず訊いてみたくて仕方がない。休みの日ってどうするんですか? どうしたら上手に休めたなぁって納得できるんですか? 僕は労働が休みの日ほどはしゃいで全力で遊んだり制作したりしてしまって、むしろ体力も気力も休日にこそフル稼働させて、だから平日はいつもくたびれている。でも、休むってなにか「リフレッシュ」とかするもんなんでしょう? 明日への活力を取り戻すんでしょう? それって何をどうしたら可能になるんでしょうか? 僕はほんとうに、まったくわからない。

本当になにもわからない

なんの予定もない休日はどうしていいかわからず、おろおろと動き回って、配信サービスで映画を見ながらポッドキャストを流し、さらに本まで読もうとして破綻します。ずっと寝てたいと頭では思うのですが、寝過ぎると脱水で頭が痛くなりますし、年々朝早くに目が覚めるようになってきてしまいました。かといって自分の好きなことを夢中でやり続けると、一日の終わりにはどっと疲れて心底「休みたい」と思う。でも翌日は平日なのです。僕はこのままずっと休めないのでしょうか。

いやいや、思う存分好きなことして、それが休むってことでしょ。休めてるよ。

そういう指摘があるかもしれないし、それはその通りだとも思います。でも僕はこの休日の終わりにいつも思う「休みたい」という気持ちを、どのように過ごせば満たしてあげられるのかが知りたいのです。たぶん頭を空っぽにしてぼけーっとするだとか、だらだらすることが一つの回答なのでしょうが、僕にとってだらだらするというのは「だらだら仕事をする」だとか、「タスクを放ったらかしてしばらくだらだらする」とか、なにかの合間についつい差し挟まれてしまうものであって、意志を持ってすることではない。よし今日はなにもしないでのんびりするぞ、と思えば思うほど、頭の中では忙しく考えが動き出してしまう。それでいてもたってもいられずせっせと何かを始めてしまう。こんな調子なので一ヶ月に一度、活動限界を迎えて寝込むことになる。この寝込みを休むと言ってもいいのかもしれませんが、僕はそんなふうに強制的に倒されてしまうような休みでなく、自分の意志で「よし、休めたなぁ!」と清々しい達成感を得られるようにして休みたいのです。

なんだかいつも以上に取り留めがないですね。たぶん休んだ方がいいんでしょう。僕だってわかっています。休みたい。しっかりと、明確に、満足のいくように、最高の形で、休んでやりたい。

僕はここまでに何度か「意志」という言葉を使ってきましたが、もしかして休むという行為と意志という発想ってすごく相性が悪かったりしますか?