2020年という年の記憶はほとんどないに等しいんですが、ひとまず「図書館が利用できない1年」だった、ということは言えると思う。いや、いろいろ手続きをすれば籍を置いている大学図書館に入ることはできたし、郵送で本を借りることもできたのだけど、前者に関しては入構申請の煩雑さがあまりに重く、後者に関しては本棚の間に座り込んで目当ての情報を探す作業を介することができなかったため、体感ではほとんど「利用できない」に近かったのである。(それはそれとして、パンデミックの中でもできるだけ図書館を利用可能な状態にできるよう運営してくれた司書のみなさんには、とても感謝している。)

 そう、それで、そういう状況であったので、私は例年以上に本を購入した。たぶんこの行動には、ストレス発散の意図も混じっていたのだろう。買うだけ買ってがんがん積んだ。その量に比して、2020年に読み切った本の記憶は少ない。それはいつからいつまでが2020年だったのか覚えていないという意味でもあり、そもそも読めていないという意味でもある。

 以下、そんなダルい1年の間に読んだ本のベスト5を紹介しておきたい。なお、これはあくまでも「2020年に私が読んだ面白い本」であって、「2020年に刊行された本の中で私が面白いと思った本」ではありません。

デイヴィッド・グレーバー著/酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)

 2020年、早すぎる逝去でアナキストたちを絶句させたデイヴィット・グレーバーが、働いている本人が無意味だと感じているにも関わらず仕事として担わされる仕事=「ブルシット・ジョブ」について調査、分析した本。それなりに高額な賃金がもらえたり、自由に休みが取得できたとしても、その仕事が社会をよくすることに関与していないという感覚がいかに人間を苦しめるか、数々のインタビューから浮かび上がってくる。

 本書はビジネス書コーナーに置いてある場合も多く、仕事の方法論について書いてあるものと勘違いされている向きもあるかもしれないが、グレーバーが展開しているのはもっと巨大な、人間と労働のこじれきった関係性をほどくための議論である。特に終盤、〈道徳羨望〉に関する議論には膝を打った。

 道徳羨望とは、なぜ人間の生存の根幹に関与するような、ある種「道徳的」な仕事がなぜ低賃金なのか?という問いに応じる形で提示される概念であり、非道徳的な仕事の担い手から道徳的な仕事の担い手に対する羨望を指す。

 つまり、人の生存の根幹に関与しないブルシット・ジョブの担い手たちからすると、その仕事が道徳的であるということ、やりがいに溢れていること自体があたかも報酬のように見えるのだ。やりがいを持っている上高賃金である、などという状況を、無意味な書類作成や他人の権威付けのためだけに働かされているブルシット・ジョブの担い手たちは許すことができない。それゆえに人間の生存に関わる仕事は、低賃金にとどめられてしまうのである。

 女性たちに押し付けられる再生産労働からパンデミック下で大問題になった〈エッセンシャルワーカー〉に至るまで、まさに今読むべき内容が詰まった読み応えのある一冊だ。なかなか大きく、かつ分厚いのだが、グレーバーの、そして翻訳者の軽妙な文章のおかげでするすると読めてしまうのもすごい。

 なお、ものすごく些細な批判ではあるが、過酷であるのに賃金の安い仕事をブルシット・ジョブと区別する形で「シット・ジョブ」と称していることが、人間中心主義になってはいないか?と少し思った。人の糞尿より牛の糞尿の方がまだましなのではないでしょうか? もちろん罵倒語のレトリックであることは理解しているが、やはり並べられると気になってしまう(英語のわからない人間の違和感なので、的外れだったらすいません)。

山家悠平『遊郭のストライキ 女性たちの二十世紀・序説』(共和国)

 規格外の判型、本の上部についた帯、独特な本文フォントなど、共和国の本はどれもすごく装丁が凝っていて最高なのだが、この本もまたすごい。娼妓たちが閉じ込められていた格子のように穴の空いたカバーをめくれば、解放令を歓迎して笑顔を浮かべる女性たちの写真が現れる。なおこのデザインは、旧版のみの仕様である(現在は新装版が発売中)。私はたまたま旧版の余りが通販に出されていたタイミングで、版元から購入することができた。

 そして内容も、ブックデザインに負けない濃度である。『遊郭のストライキ』はタイトルの通り、二〇世紀前半の遊郭で起きた遊女たちの労働争議に焦点を当て、過酷な労働環境に置かれた名もない女性たちがいかに自らの権利のために戦ったのかを丁寧に追いかけている。あくまでも遊女の現実を起点にした叙述が心掛けられており、叙述の作法にも不快感がない(世の中、古今東西のセックスワーカーに関して好奇の視線が迸った語りをする人というのが往々にして存在するので、これは非常に重要な点だ)。

 特に印象に残ったのは、一九二四年に一九歳で吉原に売られた女性・森光子(注・女優の森光子とは別人である)が記録した、遊女の生々しい怒りである。森は紹介業者に酌をするだけだと騙されて売られたが、実際には性接待を強いられ、一度は自殺も考えた。しかし憎悪を糧として、再び生の方角へと立ち上がるのである。

死ぬものか! 何うしてこのまま死なれよう。
幾年かかってもよい、出られるときが来たなら、自分のなすべき事をしよう。
もう泣くまい。悲しむまい。
自分の仕事をなし得るのは自分を殺す所より生れる。妾(わたし)は再生した。
花魁春駒として、楼主と、婆と、男に接しよう。
幾年後に於て、春駒が、どんな形によってそれ等の人に復讐を企てるか。
復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。
それは今の慰めの唯一であると共に、また彼等への復讐の宣言である。
妾の友の、師の、神の、日記よ! 妾はあなたと清く高く生きよう!

(森光子『光明に芽ぐむ日』/『遊郭のストライキ』139ページより孫引き)

 遊郭の生々しい日常を伝える資料としても重要な森の日記がいかにして残されたのか、この文章を読むだけでもじんじんと伝わってくる。もちろん森らが経験した苦難の全てを理解することは不可能であるし、遊女がみな森のような思いを抱いていたわけではない。しかしこの本から浮かび上がるのは、追っ手を撒きながら自由廃業を訴え出たり、楼主に労働環境の改善を求めてストを始めたりした女性たちの覚悟と主体性であり、それを受け取る側としての読者もまた、他者に向き合うための覚悟を求められるということだ。

 ちなみに国立歴史民俗博物館の図録『性差〈ジェンダー〉の日本史』も併読すると、なお面白かった。こちらも最新の遊郭・遊女研究がフォローアップできる、非常に充実した一冊である。

山代巴『民話を生む人々』(岩波書店)

 今年やっと山代巴の文章をまともに読み、非常に感銘を受けた。

 自分は前から己の腰の重さを強く嫌悪しており、山代巴のような身軽に歩き回り、歩いて行った先で出会った相手に誠実に向き合うフィールドワーカーに対して強い憧れを持っている。もちろんこれは憧れだけで終わらせるべきではないところで、私も広島の農村を回って女性たちの困りごとに耳を傾けた山代のように、「歩く人」になりたいし、人をオルグできる人になりたい。集団が苦手なのにそう思うのは、やっぱり山代が地道に村を歩き回って地域の女性たちと語り合い、その都度困惑したりどうにか現状を改善する方法を一緒に考えたりしようと試みる姿勢に、今自分に必要なものがあるような気がしてならないからである。

 山代が介入しようとする農村の女性たちは、みなそれぞれ困りごとを抱えている。山代はその困りごとを丁寧に聞き出すと、それをよその村で聞いた説話として作り替え、困りごとの原因となっている張本人の前で語り直す。それによって張本人は自分の身を顧みて、状況は変革される。あちこちを歩き回り、村の女性たちとともに汗を流して働いてきた山代巴であるからこそ、それができる。

 語りによって状況を変え、抑圧の中で生きる女性たちのコンシャスネスを繋いでいく山代のやり方には、まさにシスターフッドを感じた。この世を変えるための壮大な協働作業を、小さな語らいから作り出していく。マジでかっこいい。私もそういう人間になりたい。なります。

藤野裕子『民衆暴力』(中央公論新社)

 藤野裕子さんの前著『都市と暴動の民衆史』(名古屋大学出版会)が非常に面白かったので、新書も購入した。前著では日比谷暴動が一つの軸になっていたが、今回の山は関東大震災と朝鮮人虐殺である。民衆がなぜ能動的に暴力へ身を投じていくのかを丁寧に読み解いていく一冊。

 暴力は常に多面的であり、肯定はできないが、一律に否定することもできない。暴力の基準は常に権力体によって恣意的にずらされるし、暴力/非暴力を問う余裕もない状況は多く存在するだろう。私は抵抗としての暴力を否定していない。だからこそ、これまで「抵抗の暴力」として読み解かれてきた歴史を慎重に精査し直すこと、そして暴力をめぐる負の歴史を知ることから逃げてはいけないと考えている。

 藤野さんの議論が興味深いのは、民衆暴力の暴発を「男らしさ」と関連づけて論じている点だ。新政反対一揆周辺における「異人」排斥言説でも、西日本を中心に起きた被差別部落を襲撃する一揆(私は浅学でこのような事件があったことも知らなかった)でも、関東大震災における朝鮮人虐殺でも、「『女子ども』を守るために殺さねばならない」という論理が働いていることがわかる。今蔓延っている陰謀論でもしばしば「子どもを性的に虐待している集団が世界を裏から牛耳っている」などの言説が飛び出すが、これらはいずれも家父長制的権力に迎合する言説として一つの文脈の上にあるように見えるのである。江戸期にその姿を現し、近代以降急速に浸透した通俗道徳に基づく自己責任論の存在は、このマッチョイズムとパラレルなものとして浮かび上がる。

 途中、特に後半の朝鮮人虐殺に関する記述は非常にむごいものが多く、読みながら気分が悪くなった。だがこれは、それまで都知事が慣例として送っていた朝鮮人犠牲者への追悼文を打ち切った小池百合子を首都の首長に据えた「日本」、警官の暴力・移民差別が横行する「日本」、多くの差別をなかったことにしようとする「日本」に住む人間として、直視し、引き受けねばならない歴史である。

シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著/惠愛由訳『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)

 なんだかんだ今年もフェミニズム関連の出版物は非常に多く、また私自身もフェミニズムに関連する話題の執筆仕事がいくつもあったので、関連書籍を多く読んだ。本書はその中でも、特に人に推薦しやすいと感じた。

 内容はタイトルの通り、99%、すなわち1%の支配階級になれないプロレタリアートたちのための、反資本主義的フェミニズム・マニフェスト集である。非常に文章が明快で読みやすく、あらゆる差別と不平等に反対するためのフェミニズムが対峙すべきものを的確に言い当てている。

 私はこれまでさんざん言っているようにアナキストでありフェミニスト=アナーカ・フェミニストなので、やっぱり資本主義、ひいてはネオリベラリズムに親和的な「フェミニズム」「フェミニズム的なもの」にはものすごく違和感がある。特に目につくのは自己啓発の文脈と癒着したやつだ。つまり自分を変えることで世界も変わる、というような姿勢でフェミニズムっぽいメッセージを打ち出すやつ。そういうのは大抵「自分を変える」ために必要な労力やコストに自腹を切るよう強いてくるし、「成長」を奨励する。マジでうるさい、変わらなきゃいけないのは私じゃなくて社会の方だって何度言えばわかるんだ? 

 あの手の資本主義のまやかしに騙されて巻き取られないように、この本は広く読まれるべきだ。フェミニストはもっとこの世を否定していい。

 また、翻訳者の惠さんは私と同い年の大学院生であり、若手研究者の仕事であるという点でもおおいに励まされた。同い年の人が活躍していると本当に背筋が伸びる。私も頑張らねばなるまい。

※なお、藤野可織『ピエタとトランジ〈完全版〉』も最高だったが、同書はこちらの記事ですでに取り扱ったため、今回は割愛した。